馬謖 幼常

泣いて彼を斬る

 190年生まれ。  

 荊州・襄陽出身で、名士で有名だった馬氏の末っ子。兄は四人で、四男である馬良は「馬氏の五常、白眉最もよし」とされていた。その弟として期待され、蜀の軍師・諸葛亮はこの兄弟と義兄弟の契りを交わし、最も馬謖に目をかけていた。  

 諸葛亮が南蛮制圧に向かった際には、「城を攻めるのは下策であり、人を攻めるのが上策である」と諸葛亮に進言する。異民族は叩くだけではまた再起を計り、恨みを買うだけで終わるために、心から従属させることが重要であるという切実な言葉であった。  

 劉備は死の間際、「馬謖は大言が多く、重要なことを任せてはならない」と諸葛亮に言うが、第一次北伐の際には前線基地確保に回す一軍の将に彼を抜擢し、周りの反対を押し切って向かわせた。  

 しかし結果は大敗。北上していた蜀軍は撤退を余儀なくされ、その責をもって諸葛亮はお気に入りであった彼を死罪に処した。「泣いて馬謖を斬る」という故事の元である。



 〜馬氏の英才、子のために死を厭わず〜

 228年、魏は君主が代わったばかりで、内政に力を注いで外敵に対して油断していた。その隙を突き魏に対して攻勢に出た諸葛亮率いる蜀軍。

 漢中から北上した蜀軍は、その北の安定・天水・南安を一気に制圧し、魏の防戦部隊が駆けつける前に前線基地を確保するために一軍を差し向ける。その軍の大将として諸葛亮が任じたのは、まだ実戦経験が浅いものの、その才を認めていた馬謖だった。

 初陣である息子、馬峻を副将王平の元に配属し、馬謖は前線基地となる要所、街亭に向かう。諸葛亮に忠告されていたのは、「山頂にだけは陣を張ってはならない」という言葉。

 数の不利を補うためには、必ず街道に陣を張らねばならないことは分かっている馬謖だったが、諸葛亮の本隊が到着するまでの時間稼ぎという本来の目的のため、陣を二つに分け、山頂にも陣を張ることを決定する。

 街道の援護と、山頂からの逆落とし。これによって魏を牽制する上で、一番の手柄となるのは山頂の指揮を取る将。馬謖はその役を王平に任せるが、しかし配下の李盛、張休は功に焦って独断で兵を引き連れ、山頂へ向かう。そして、それに気付いて追う息子、馬峻。魏の軍勢は、間近に迫っていた…。



 他登場作品


・ 飛人歌(偲蜀伝)

・ 桃園昇華(偲蜀伝)
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