諸葛亮 孔明

この二人、子供は出来ませんでした…。
 181年生まれ。  

 徐州・琅邪郡出身。物心付かない頃に両親を亡くすが、父の後妻に育てられる。身の丈八尺と言われ、当時の計算で180cm以上。  

 幼い頃に中原の動乱を避け、叔父に連れられて南方に向かう。しかし叔父が権力闘争に敗れ亡くなったため、一族を連れていた諸葛瑾と別れ、弟と共に荊州に向かう。  

 荊州の隆中という所で晴耕雨読の日々を送っていたが、劉備玄徳が三顧の礼をもって訪ね、劉備軍配下として世に出ることとなる。  

 大勢力である曹操軍に対抗するための天下三分の計を示し、劉備軍軍師となって蜀呉同盟を為し、赤壁の戦いにおいて曹操軍を破るために尽力した。  

 その後は益州を取り劉備が興した蜀の法制度や政治の整理、施行を行い、国としての蜀の基本的な形を作っていった。  

 劉備死後、蜀の丞相となって五度に渡る北伐を行うが、魏を打ち破ることが出来ないまま、陣中に没した。


       〜伏竜、起つ〜

 数多の英傑が起こり、そして消えていった群雄割拠の時代。

 荊州の州都・襄陽から西へ二十里ばかり離れた隆中という地に、一人の青年が妻と共に草庵を構え、晴耕雨読の日々を送っていた。その青年の名は、諸葛亮孔明。

 206年、春のある日。その諸葛亮の元に、徐庶という男が訪ねてくる。

 かつて諸葛亮と同じ門下で学を学び、その才をお互いに認め合った徐庶は、劉備に仕官したことを諸葛亮に伝え、そして尋ねる。お前も一緒に来ないか、と。

 徐庶の誘いに、戸惑いを見せる諸葛亮。幼き日に戦乱から逃れた記憶は、彼に戦の虚しさを刻み込んだ。だがそれ以上に彼は、人前で自らを表現することに怖気づいていた。

 一度は断った諸葛亮だったが、半年が過ぎた頃に徐庶から再度の誘いの手紙が届く。

 諸葛亮は、妻・月英の言葉に、かつて徐庶や同門の仲間と誓い合ったことを思い出し、劉備軍の軍議に参加することを決意する――。



 他登場作品


・ 飛人歌(偲蜀伝)

・ 桃園昇華(偲蜀伝)

・ 閑話休題(偲蜀伝)
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