虎軍の師 第一話

 始まりの予感は、気分を高揚させてくれる。それがどんな始まりであろうとだ。
 天下は混乱し、数々の群雄が興り消える。
 混乱は絶えず始まりであり、終わりを含む。
 この時代に生まれたことは、僥倖だったのかもしれない。少なくとも、徐庶元直はそう思う。
「南の豪族たちが納得しないのですよ、劉備殿」
 いつも目を閉じているように見える男が、劉備にそう言った。
 新野の宮殿内、応接の間だ。そこに徐庶と劉備、他に従者を含む三人がいた。
「劉表殿に対して含むものなどありません。ただ外敵に対する兵力を、と」
 劉備が答えると、その男はわずかに眉を動かした。
 閉じたように見える目は、しかしうっすらと開けられていて、ぎょぎょろと動いているのがよく見える。そして、盗み見られているような不快感を伴う。一緒に酒は飲めない。それは、はっきりと分かる。
 名は蔡瑁。劉表の下で自らの保身ばかりを考えていて、劉備軍に対しても並々ならぬ警戒心を抱いていた。自分に力がないから、何とかして力のあるものを蹴落とす。それしか考えていないのだ。
「この荊州は安定しているように見えますが、劉表様は最近老いられ弱気になっています。兵をこれ以上増やすのは…」
 蔡瑁に長々と口上を話されるのは、刑罰を受けているようなものだ。だから、徐庶はその言葉を断ち切った。
「荊州全体の戸籍調査は、劉表殿のためにも必要です。現に犯罪などは以前より減っている。そうではありませんか?」
 蔡瑁が、ぐっと詰まった。
 蔡瑁が自ら劉備の所まで訪れてくるのは珍しいことだったが、しょせんお互いに腹を割って話すつもりなどない。
 忠告はしたぞというつもりで、後は軍備の一部を寄越せだの、江夏に兵が必要だのと劉表の名を借りて言ってくるのは分かりきっていた。
 案の定、徐庶が強めに言ったために怖じたのだろう、世間話に移り始めた。
 客が来れば、必ずと言っていいほど酒を振舞う劉備だったが、蔡瑁に対してだけはそれがない。
 蔡瑁は反応の鈍い劉備を前に、居場所をなくしたように感じたのだろう。そう時間が経たない内に立ち上がって、薄い笑みで帰ることを告げた。
 帰って、劉備をどうやって追いやるか、自分の財を増やすためにどうするのか。そんなことを考えるのだろう。
 こんな下らない男は斬ってしまえばいい。ふとそんな考えが浮かぶ自分を笑う。
かつて友人の仇討ちに人を斬り、役人に追われた。結局は捕えられたが、助け出してくれた恩人がいた。
 その恩人は学問に詳しく、人の血を流さない解決方法が最も重要だと徐庶に説いた。軍の戦も、個の戦いも、戦わずして勝つことが最上なのだと。
 恩人の言葉を無下にすることが出来ず、その時剣を置き学問を学ぶために、名士が集うというこの荊州へと流れてきたのだ。
 水鏡と呼ばれる師に出会い、学友に出会い、どこかでその才を発揮したいと思えるまでには、自分は学問に励むことが出来た。
 だが、結局自分の考え方は終始短絡的なのだ。友人を傷付けられれば傷付け返し、いけ好かない人間がいれば斬ればいいと思ってしまう。
 抑えることが出来ようと、根本は変わらない。それが自分の限界だろうと思う。
 新野城外まで、蔡瑁を見送った。
 外では、兵が訓練している。魚鱗陣の混在部隊と、錐行陣の騎馬部隊の模擬戦をやっているようだ。
 劉備の従者が、二頭馬を引っ張ってきた。徐庶は劉備と共に馬に乗り、それに近付いていく。
 騎馬隊を率いるのは、張飛。格別に体が大きく、どこにいても目立つ。兵はどんな戦場でも決して彼を見失わないだろう。その上、部隊の後ろに下がることがない。必ずと言っていいほど先頭に立って戦う男だ。
 もう一方の混在部隊を率いるのが、趙雲。張飛に比べれば体が小さく見えるが、それでも目立つほどの大きさはある。だが、部隊の先頭に立つということはあまりしない。部隊の全体を見れる、視野の広い男だった。
 その模擬戦を見るように、歩兵の一軍が徐庶と劉備の反対側に陣取っている。関羽の率いる兵だ。物静かに、しかし大きく。張飛と同じく軍の先頭を好む関羽は、その馬上の姿だけで敵を威圧することが出来る。
 関羽と張飛は、天下に名を知られた猛将だった。趙雲もあまり知られてはいないが、彼らに劣らないものを持っている。
 これらの将を使えること。それ以上の興奮が、軍師にとって他にあるだろうか。
「張飛の得物は、あれでも新兵には辛いな」
 隣で、劉備が苦笑している。張飛の模擬戦での得物は、竹の棒だった。それでも、兵を叩けば昏倒する。二人か三人叩けば、竹が割れて使い物にならなくなる。張飛は文句を言うが、むしろ本当はそれ以上に柔らかいものがいいのだ。
「張飛将軍は手加減を知りませんからな」
 徐庶も苦笑いを浮かべる。どんな得物であろうと、あの男には小突かれたくないものだ。
 劉備軍に入って、二年以上が経つ。
 状況は、芳しくない。劉備軍には敵が多すぎる。曹操という大敵を持っている上に、味方である劉表にも警戒され孤立無援だった。この新野も、曹操に対しての盾にしかならない。
 劉備の追う天下平定など、夢のまた夢だった。
 しかしそれでも、隣で微笑んでいる男は生き抜いてきたのだ。
 彼は黄巾の乱からこれまで、紆余曲折を経ながら戦い続けてきた。そして、関羽、張飛、趙雲という猛将がいる。
 道はあるはずだ。劉備と出会いその下で働くと決めた時に、そう信じた。
「今日は訓練には参加せぬか」
 劉備が突然ぽつりと尋ねてきて、徐庶は意識を現実に戻した。
「ええ」
「お主が訓練に参加していると、私も参加したくなる」
「恩師との模擬戦を思い出す、ですか?」
 劉備が、笑顔で頷いた。
「軍師殿は、よく似ている」
「劉備様が私を口説いた最初の言葉でしたな」
 そう言いながら、徐庶は小さく笑う。
 廬植、という名士がいた。黄巾の乱で活躍した人間だ。劉備の学問の師だったというが、何度も聞いた話だった。
「何度も聞いた、という顔をしているぞ」
 劉備が言うと、徐庶は目を見開いた。劉備が声を上げて笑い、それを収めると、
「…昔から、戦い続けることしかしてこなかった。先など、踏み出す一歩を見るのが精一杯だった」
 劉備の言葉に、徐庶はただ目を細める。
「だから、お主には感謝したいのだがな」
 徐庶に向けられたその表情が、苦笑を浮かべている。
 何が言いたいのかは分かっていた。その期待の大きさも分かっている。感謝されるほどのことはしていないが、それでも自分にとっては格別に嬉しいことだ。
「…席を外します」
「そうか」
 徐庶は馬上で拝礼し、笑顔で言葉を残す。
「この模擬戦の結果は、趙雲殿の勝ちと見ます。後で教えて頂きたい」
「分かった」
 劉備と笑顔を向け合って、徐庶は馬を返す。
 新野の城内に入り、馬を降りて施政区画へと向かう。その一角から宮城へと向かう人影が見えた。その人影は痩せ気味ではあるが、身長は群を抜く。無造作に束ねた長い後ろ髪と共に、見ればすぐに誰なのかが分かる。
 劉備の期待。
 先を見据える力。才を認め合う存在。
 そして何より同じ門下で学問を学び、共に世に出ると誓った親友。
「俺はここだ、孔明」
 声をかけると、臥竜とまで呼ばれる男が、驚いたように振り向く。
「元直…。蔡瑁殿はもう?」
「ああ、追い返してやったよ」
 冗談めいて言うと、予想通り諸葛亮孔明は苦笑を浮かべたのだった。


 三万の兵が、許昌の南に整然と並んでいる。
 とにかく実戦で試してきた。旗揚げから二十年近く、それは早急な精兵を作り上げることを可能にしてきた。
 だが、それを押し付けられる身にもなって欲しいものだ。その上に、先鋒を任せてきたりする。
 小さく溜息を付いて、夏侯惇は三万の軍を見渡す。
 烏丸の征討を終えた曹操軍は、そこから騎馬隊を選抜して軍に組み入れた。大部隊に組み込んで連携できるかどうか。それを試すために、劉備を攻めろというのだ。
 兵の間から一騎がゆっくりと出てきて、夏侯惇の隣に並んだ。
「万事整いましたよ」
 今回の出陣で、指揮の一翼を担うことになった李典だ。膨らんだ頬と全体的に丸みを帯びた体が温和な人柄に見せるが、火急の際には炎のように激しく叫ぶ。
 夏侯惇は頷いて、手で合図を送る。
 銅鑼が鳴らされ、馬のいななきと共に空に響き渡った。何度聞いても、身体の奥を痺れさせるような出陣の音は心地いい。
「あまり乗り気ではないように見えますね」
 だが、李典は意地悪げな笑みでそう言う。
「…そう見えるか」
「ええ。自分の全力でやってみたいと、そう顔に書いてあります」
 顔を向けると、李典が笑顔のまま首を傾げた。
「そうかもしれん」
 そう言って、夏侯惇は空に目をやる。
 袁紹に勝ち、平原を制したことで曹操は覇者と呼べる存在にまで登った。だが、荊州と揚州、涼州や益州。曹操の統治が行き渡っていない場所はまだ多くある。
 それでも曹操は、漢王朝に降伏するのかそれとも敵対するのか、それだけを全土に提示し続けるだろう。曹操に敵対することも降伏することも、何の意味もない。
 その曹操が、漢ではなく曹操に敵対する劉備という男を相手に新兵を試そうとする。
 劉備は、よく分からない男だった。初めて知った時はそう思った。面白い人間だとも思ったが、ただそれだけだった。
 自分が何をすべきなのか、何を求めているのか。それが、自分でも分かっていない。誰かの庇護を受けて、やりたいことだけをやっている。それだけだったのだ。
 その劉備が変わったのは、いつだったろうか。
 徐州を統治するようになってからか。呂布という男に出会ってからか。
 曹操の元にいた頃だろう、と夏侯惇は思う。
 曹操が見ているものを、劉備はその傍らで垣間見た。そこで、求めているものに気付いたのだ。だから、曹操の元を離れた。
 しかし、曹操はもう劉備の手の届かない所にいる。躓かせることすら出来ない石ころ。荊州は降伏するのか。揚州はどうするのか、そういった段階でもない。一つの勢力として認めることすら有り得ないのだ。
 しかしそれでも、曹操は劉備を敵とする。劉備だけは、敵と認めている。
 劉備に対しては、曹操は何もかもが矛盾していた。それがなぜなのかは、夏侯惇にも分からなかった。曹操の心の奥だけに、そして劉備の心の奥だけにあるのかもしれない。
 ただ軍人として。それだけは、認めるものがある。
 劉備軍は負け戦を繰り返しながら、生き残ってきた。そして、関羽、張飛という万夫不当の将がいる。
 正面から当たり、それを打ち破る。その機会を与えてくれたことだけには、曹操に感謝しなければならない。
「劉備軍の兵力は以前とほとんど変わっていません。この三万が動くだけで、違ってくるでしょうね」
「戦は必要だが、重要ではない。あいつは昔からそうやって、軍人の気を削ぐ」
「あなたが丞相に近い位置におられるから、そう思われるだけでしょう」
 李典の言葉に、鼻を鳴らして返す。
 曹操が南下の軍を動かすのは、間もなくだ。
 荊州の劉表が反抗の意思を表すのかどうか、それを確かめる。
 荊州は戦から遠ざかっていたこともあり、兵力は増え続けているようだ。だが、実戦経験がないに等しかった。
 わずかに面倒になりそうなのは、劉備軍が荊州内部で動くことだった。指揮系統が劉備にずれるだけで、状況は変わってくる。
 今回の夏侯惇の出撃は、烏丸から編成した騎馬隊の実戦訓練と共に、劉備と劉表の連携がどこまで取れるのかを確かめる目的があった。
 劉表は病に弱り、蔡瑁という男が実権を握っているというが、蔡瑁は劉表以上に劉備を警戒しているようだ。劉備に対して援軍を出すのかどうか。出すならば、どの程度か。
 もし劉表が援軍を出さなければ、劉備軍を孤立無援にし、蔡瑁始め荊州が降伏する方向を濃厚にさせる。少数ならば、劉備軍に不満の声が上がるだろう。
 戦はただ勝敗を付けるだけでなく、その目的を持たせる。それが考えられなければ、この乱世では大きくなれない。
 軍人からしてみれば確かにその一戦に集中すればいいだけの話だが、夏侯惇はどうもそれが気になるのだ。曹操には、その苦悩をいつも笑われる。
 何も考えずに劉備とやり合う。それが出来るのなら、今回の戦は楽しめるはずなのだが。
「まあ向こうがどう出ようと、無茶はなさらないことです将軍」
 李典が、小さく笑いながら言った。夏侯惇は、その李典の言葉に浮かんでくる苦々しい記憶を噛み潰すように、口の端を歪める。
 五年ほど前になるだろうか。劉備が劉表の元へ行ったばかりの頃、一度劉備が劉表の将と共に北上してきたことがあった。袁紹を倒し、その後始末に曹操が追われている頃だ。
 背後を突こうとした劉備に対して軍を動かしたのが、夏侯惇だった。
 劉備が撤退に見せかけて陣を焼き払い、それを夏侯惇が追ったが、伏兵が配されていた。危機に陥った夏侯惇を救援に駆けつけたのは李典だった。そして李典は、劉備を追わない方がいいという忠告を夏侯惇にしていたのだ。
 その時のことを、からかうように李典は言っている。
「ふん。だから再び全力で、借りを返したいのだ」
 李典から顔を背け、夏侯惇は馬の手綱を両手で掴み鞭のようにしならせる。
「特に、よからぬ噂もありますからね」
 言いながら李典が手を挙げると、騎馬の斥候が五騎ほど駆け出した。
 夏侯惇は、駆け出す斥候の背を通してまだ見ぬ新野城に目を向ける。
 劉備軍に軍師がいるという噂。李典が言っているのは、それだった。
 軍師など珍しい存在ではない。君主に勢力としての動きを指し示す。戦で、将軍に策と機を献じる。特に曹操軍においては、どんなに良策を示そうと抜きん出ることが難しいほどに、多くの数がいる。
 しかし、劉備にはそれがいなかった。少なくとも荊州に入るまでは。
 二年前に曹仁が負けた。劉備らしからぬ軍の動かし方で、それで疑問が生まれてその存在に辿り着いたのだ。
「確か程c殿が言っていたな」
「徐庶元直。名前だけは聞いています」
 戦で策を立てさせれば、劉備は曹操に劣らない。それは、曹操自身が認めているところだ。それに、関羽もいる。あの男には下手な策など簡単にねじ伏せる力がある。それに張飛の武勇も加わって、今まで生き残ってきたのだ。
 しかし、更にそれに加わる知恵があるとすれば。
 そして、一つの戦に何かを加える頭脳があるとすれば。
「それを確かめるのは、お前の役目だぞ李典」
「私は軍人です。それに、あなたの方がそれを気になさっているではないですか」
 李典が声を上げて笑った。
「…まあ、な」
 こういう相手の心情を読んでからかいに来る部分は腹立たしくもあるが、間違ったことは言わないから何も言い返せない。
 確かに、気になるのだ。
 劉備軍に軍師が加わることの脅威。
 軍人として大きな存在と戦うことへの期待。
 眼帯の奥の、存在しないはずの左目が疼く。
 劉備。
 この利かない左目が見ようとするほどのものが今のお前にあるか、確かめてやろう。
 夏侯惇はそう心の中で呟き、口の端を吊り上げたのだった。


「南征の先鋒とでも言うべきか」
「そうだね」
 新野の北二十里ほどの所で、馬を並べていた。
 許昌から、曹操軍が動いたという情報を孔明は持ってきた。
 連なった山と長く続く森林が挟む平野の向こうを、その軍が確実に進んできている。その数、三万。
 孔明は、未だにはっきりと自分の意思や考えを劉備に伝えることが出来ないでいた。
 徐庶も、そして何より劉備が、孔明には期待している。その言葉を待っている。
 自分でも何とかしようと苦心しているのは分かる。だから強くは言わず、今は見守っているつもりだった。
 劉備に言えなくても、気になって徐庶に会いにきた。今は、それでもいいのかもしれないと思う。劉備軍にしても、自分のことにしても、何とかしなければならないという思いは、痛いほど伝わってくるから。
「三万か…。二年前の曹仁は、二万に満たなかったが」
「それでも、元直は撃退したよ」
 龐統の影響を受けてか、孔明はたまにむず痒いことを言う。会ったばかりの頃はそんなことはなかったのだが、聞く分には悪くない。素直に受け止め笑顔を向ける。
 馬に乗った孔明は、そのすらりと伸びた背も相まって、威風堂々として見えた。いつもこうならば、一軍を率いても違和感はないのだろうが、それを伝えたことはない。
「曹仁を撃退したことは、良くなかったかな?」
「…今となっては、分からないよ」
 曹仁は、袁紹の息子たちが仲違いすることを狙って、矛先を南に向けてみせただけだったと、いつか孔明が言った。本気でぶつかる気はなく、劉備の動きを見て引き上げる程度のつもりだったのだろう。
 それを完全に引き込み叩いたことで、徐庶の存在が知られ警戒された、と孔明は確信しているようだ。
 知られることなど構わないが、孔明には引っ掛かるものがあるようだった。
「今回は、夏侯惇か」
「昔、劉備様が博望まで出られたよね」
「ああ。夏侯惇を罠にかけたというが、討ち取るまでには至らなかったようだ」
 劉備が荊州に来て、曹操軍とやり合うのはこれで三度目になる。
 今回の夏侯惇軍の出撃は、曹操としては南征の一環でしかないだろう。夏侯惇を撃退しても、その後に待つのは曹操の本隊。十万か、それとも二十万か。幸い、まだその本隊が動き出したという情報はない。
「夏侯惇は戦で熱くなりやすいというから、そこを狙うしかないな」
 頭の中で、ここから北の地形を思い浮かべる。
 どこに布陣するに適した地形があるのか。伏兵を配するとしたら? 誘い込むことを考えても、どれだけの距離が出来る? 
 三万を相手に繰り広げる戦。胸がざわつく。ざわついているものは今にも胸を破り這い出してきそうだったが、きっとその時は快感に包まれるに違いなかった。
「いま、劉備様は新野を劉表殿から借り受けているけど、樊城にも所在が欲しい」
 その愉悦の思考を破られ、徐庶は眉を寄せる。
「…どういうことだ?」
「夏侯惇が南下してくることで、劉備様は更に劉表殿と離れてしまうから…」
 徐庶は孔明の言わんとする先。わずかに目を細め、考える。
「蔡瑁が実権を握っている今、劉表殿は援軍を出してはくれないか」
「少なくとも蔡瑁殿にはその気がないと思う。だから、新野は新野。そういうことになってくる」
 劉表と劉備がどれだけ連携する力があるのか、それを確かめることも目的の一つ。そういうことだ。そして、援軍を出さなかったという事実は、荊州が親曹操の立場であることを浮き彫りにさせ、劉備を孤立させる。
「それは分かる。だが、樊城というのは…」
 孔明が馬首を返し、樊城の方を手で指し示す。
「新野城は守るに適さない。だから、曹操の南下に対抗することを考えると、どうしても樊城が必要になってくる」
 孔明の目は、どこか遠くを見ているようだった。こういう時の孔明は、何を考えているのか分からない。色んなものを整理しているのか、それともずっと遠くを見ているのか。
「…分からないな」
 徐庶が言うと、孔明は顔だけを徐庶の方に向け、笑顔を浮かべた。
「元直、水鏡先生はいつも言っていたじゃないか。戦は戦う前から始まっている。それに乗り遅れれば、例え戦に勝ったところで得るものは何もない」
 徐庶は水鏡の顔を思い出し、片眉を吊り上げる。
「どんな戦にも、戦う意味を持たせなければならない」
 風が孔明の髪をさらい、流れる前髪が揺れ笑顔を酷薄に見せる。
 その瞬間、ぐっと押される感覚が徐庶の心中を抉った。
「夏侯惇がそれを狙ってくるのなら、それを利用したいんだ」
 いつも隣にいたはずの男は、しかしいつも前にいた。どんなに人見知りをしようと、どんなに人の目に怯えようと。
 自分はこの男の隣に並ぶべき男なのか。そんな激しい疑念が、痛いほどに胸を突く。
「…元直?」
 孔明のきょとんとした表情に、徐庶ははっと我に返る。
「いや、すまない。…俺はダメだな。そういう所まで頭が回らない」
「そ、そんなことはないよ」
 慌てて孔明が付け加えるが、徐庶は苦笑するしかなかった。
 ふ、と小さく息を吐き、気持ちを入れ替える。
「樊城、か」
 徐庶が孔明に視線を送ると、孔明が頷き返してくる。
 劉備が借り受けているのは新野城だけだ。時折、劉表との軍需物資のやり取りで樊城と行き来することはあるが、城外に駐屯するまでしか許されていない。城内に兵が入り込むことがあれば、蔡瑁がうるさく口を出してくる。
「しかし、夏侯惇と戦うことでそれが出来るのか?」
 徐庶が尋ねると、孔明はあるかなきかの笑みを浮かべる。
「簡単なのは、新野を夏侯惇に取らせることだね」
「ば、馬鹿な!?」
 孔明の言葉に思わず言葉が突いて出る。
「そうすれば、劉備様は一番近い樊城に入るしかない」
 言いながら、孔明の笑みが強くなった。それで冗談だと気付いて、徐庶は苦笑を浮かべる。
「まあ、これはさすがに冗談だよ。一度取られてしまったら取り返せないだろうし…」
 孔明が、わずかに考えるように俯いた。
 考えがないのか、あるものの内で選択に迷っているのか。それは分からない。
 だが、これなのだ、と徐庶は思う。
 決して、一つの戦に全ての命運を賭けることなく、先の一歩に繋げる思考。
 全体の先を考えることに至っても、その一つ一つを繋げることが自分には出来ない。
 追いつくことは叶わないのかもしれない。ふとそう思うが、それでもいいのだ。
 孔明が大きくなる。そして、それによって劉備が大きくなる。その傍らにいることさえ出来れば、徐庶は満足だった。
 ただ、それには最低限必要なものがある。
 自分の刃。
 刃を持たぬ者に、傍らにいる資格はない。
「夏侯惇をいかに撃破するか。俺は、それに集中したい」
 孔明が、顔を上げて頷いた。
「元直にしか、きっと出来ない」
「期待をかけてくれるなよ」
 そう言って、笑った。孔明は否定するように首を振ったが、その後やはり笑い声を上げた。
「さて、劉備様の耳にも入った頃だろう。今日明日には軍議だな」
 徐庶が言うと、孔明はわずかに顔を曇らせた。
「お前を参加させたいのだがな」
 その孔明の表情が意味することを理解しながらも、徐庶は孔明に問いかける。
「…今回はそれだけじゃないんだ元直。やらなければならないことが、ある」
 孔明の言葉に徐庶は目を細めるが、すぐに頷いた。
「分かった」
 怖じようとも、今は呼べば参加しようという意思を見せる孔明だ。それ以上は、徐庶は何も言わなかった。
 軍議の召集がかかったのは、翌日だった。

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