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虎軍の師 第二話

 霍峻は、自らの怒りを収める方法を知らなかった。
 襄陽城から長江の支流を渡り戻ってきた霍峻は、船を下りた瞬間に剣を地面に突き立て、わなわなと唇を震わせた。
『劉備が敵を消耗させてくれる。そこで初めて出ればいいではないか』
 蔡瑁の顔を思い出す度、霍峻は唇を噛み締めた。
 荊州はいつから蔡瑁のものになった。いつから、自分は蔡瑁の配下になったのだ。
 劉表に目通りを願っても、病に伏されていると止めるのも蔡瑁だった。
 劉表は、決して民を見捨てはしない。誰よりも家族を大切にし、そして荊州の民を家族だと思っている。だから、劉表に仕えていることに不満を抱いたことはないのだ。
 会って意見を伝えることが出来れば。そうすれば、必ず劉表は考えてくれる。なのに、会うことすら許されない。
 樊城から迎えに出てくれた百人ほどの兵が、自分を見守っている。その中には、新野に家族がいる者もいる。
「霍峻様…。劉備様は勝てるんでしょうか…?」
「……」
 兵の上げる不安の声に、霍峻は返す言葉を知らない。
 樊城にも襄陽にも、新野に家族がいる者たちは大勢いるはずだ。
 蔡瑁は分かっていない。劉備が負ける時、それは新野が落ちる時だ。いや、分かっているのかもしれない。ただそれ以上に、蔡瑁は劉備を嫌っている。私情で新野の民を見捨てるつもりなのだ。
 劉備は確かに疑われるような経緯がある。劉表も、劉備を警戒していないわけではないはずだ。
 それでもその目に耐え、劉表のために盾となり、劉表の意向を汲んできている。夏侯惇を相手に、わずかな兵力で戦おうとしているのだ。
 それを見殺しにし、新野を捨てる。領民のことなど何一つ考えていない。
 新野にも樊城にも、そして襄陽にも、劉表は新野を見捨てる気だという噂が流れている。そして劉備軍が緒戦に敗れ、夏侯惇軍が確かに新野に近付いてきているということも。
 自分が守将として配属されている樊城のことは、特によく分かる。家族の安否への不安を幾つも聞いた。そして曹操軍への畏怖も。
 なぜ劉備を見捨てるのか。なぜ劉表は兵を出さないのか。必死に問いかけてくる老婆がいた。新野が取られて、家族は逃げてこられるのか。そう尋ねてくる農夫もいた。
 夏侯惇が攻めてくるという時、霍峻は自らの判断で兵を出そうとした。だが、樊城の守将は蔡瑁の息のかかった者たちばかりだった。いつの間にか指揮権を分散させられ、自分に残ったのはこの百の兵だけだったのだ。
「我々は荊州の兵なのに…」
「新野のために戦うことが許されないのですか…?」
「劉備軍は今も戦ってるっていうのに…」
 苦渋の表情を浮かべた兵たちが、口々に声を上げる。
「我らは劉表様の兵だ! 劉表様が兵を出すなと言われれば、従うしかない!」
 矛先が違うと思いながらも、霍峻は怒りのままに声を荒げてしまう。劉表ではなく、蔡瑁の命令だ。だが、あの男は劉表の代弁をしていると言って憚らない。
「俺たちは霍峻様に付いていきます! 霍峻様は、この状況をどう思われているのですか!?」
 兵の一人が、嘆きに声を荒げた。だが霍峻は何も答えず、ただ強く目を閉じる。
 百の兵でも、何かの役には立てるかもしれない。しかし、軍律違反として後で問われたら、自分は受け入れなければならない。自分はまだいい。だが、蔡瑁はきっと兵たちも処罰するだろう。
 見ているしかないのだ。収まらない怒りには自身への憤りも混じり、体を震わせる。
「か…、霍峻様」
 兵の一人が声を上げた。霍峻はそこで初めて、視界の兵たちの幾人かが霍峻ではなくその背後に目をやっていることに気付く。
「…どうした?」
 霍峻は疑問に思い、振り返る。
「やはり霍峻殿だった」
 見れば、小船が長江の支流を渡ってきていた。乗っているのは、五人ほどの男だ。その内の一人が、船から降りながら声をかけてくる。
 それが誰なのか、すぐに分かる。その長い耳と、どこか茫洋とした目。
 劉備玄徳だった。
「…りゅ、劉備殿!?」
 一目で分かるはずなのに、霍峻は驚きにその存在を疑わずにはいられなかった。
 今、新野は夏侯惇に対して迎撃態勢を取って交戦している最中のはずだ。なのに、その総大将である劉備がこんな所にいるのだ。疑って当然だった。
「どうされたのです!? なぜここに!?」
 残っていた怒りと、激しい動揺。その二つが勢いよく言葉を弾き出し、霍峻を劉備へと詰め寄らせる。
 劉備は霍峻の様子に驚くことなく、ただ笑いを浮かべる。
「我が軍には今優秀な軍師がいるのでな」
 劉備の言葉に、幾度か会った徐庶という男を思い出す。
「し、しかし…」
 優秀な軍師がいるからといって、大将がこんな所で油を売っている理由にはならない。
「劉表殿に援軍を頼みに来たのだが…」
 入れ違いだったのだろう。劉備は自分と同じように、劉表に会いに行ったのだ。劉備が言いながら振り向き、連れている男の一人に苦笑を向けていた。
「ま、玄徳にゃあきつい相手だ」
 劉備の言葉を受けて、その男が笑う。確か簡雍という男だ。酒飲みで、宴会などで見かけた時には必ず真っ先に手を付ける。特に何の活躍も聞いたことがなく、とにかく陽気な人間だという印象しかなかった。
 劉備を字で呼ぶのはこの男だけで、よほど信頼されているのだろうか。
「きついというかな…」
「嫌いなんだろ」
 劉備が言うと、簡雍がからからと笑った。劉備は顔をわずかに歪めるが、簡雍の口は止まらない。
「お前はああいう人間に対しては本当に顔に出る。直せ」
「この年で直らんのだ。もう無理だ」
「そんなことだから偏った人間しか集ってこないんだぞお前」
 簡雍の言葉に、劉備がイライラし始めたのが表情で分かる。あまり見たことのない劉備だった。
 その珍しさのためか、二人のやり取りにしばし耳を傾けてしまう。だがその話の元が何を示すのかがふと浮かび、霍峻は口を挟んだ。
「蔡瑁殿…ですか?」
「そうそう。劉表さんに会わせようともしない。クソッタレだあいつは」
 簡雍が言うと、劉備が小さく吹き出したようだった。霍峻がそれに気付いて目を向けると、劉備は小さく咳払いをした。
「しかし…。何とかせねばならん。軍師殿ならばしばらくは持ち応えられようが、兵力差は圧倒的だ」
「劉備殿の軍は緒戦を敗退し後退したと聞きます。それに、樊城でも劉表様が新野を見捨てるのだという噂も広がり…」
 霍峻は聞き及んだことを吐露しつつ、それに伴って浮かんでくる怒りに再び拳を握る。
「敗退…?」
 劉備が小さく呟く。霍峻は、劉備の顔に疑問が浮かんでいることに気付いた。
「荊州の民は劉表さんを慕ってるはずだがなぁ。そんな噂が簡単に広がるかねぇ?」
 簡雍も同じく疑問を発する。霍峻は、簡雍の言葉で初めておかしなことに気付いた。
 確かに、荊州の民は戦乱から逃れた者ばかりで、施政に対する不満などそうは出ない。劉表を良君だと思っている者も多いはずだ。自分も、劉表が領民のことを思える人間だからこそ付いてきた。
 いかに戦に慣れていない者たちが多いと言っても、こうも簡単に劉表への不信を表すものだろうか。
 自らに浮かんだ疑問に、霍峻は眉根を寄せる。
「ではこれはどういう…」
「誰かが操作してる…か? 玄徳」
 簡雍の言葉に劉備が頷き、目を細める。
「扇動、か…」
「心当たりがあるのですか!?」
 劉備の態度を見てそう感じ、思わず叫ぶ。だが劉備は目を遠くへ向け、軽く首を振った。
「だが、これでやりやすくなったな憲和」
 劉備が打って変わって笑みを浮かべた。簡雍は肩を竦めて溜息を付く。
「劉備殿…?」
 劉備は後ろを振り向き、残る三人の従者に手で合図を送る。
 三人の従者は手早く船から荷物を降ろしていく。馬を引き、剣を取り、劉表に送るつもりであったのだろう品を下ろし、風呂敷に包んでいく。
 そしてそれらの降ろしていく荷物の中に、妙なものがあった。木の板と、それに裏打ちされた木の棒。
「全く。この年になって自分でこんなことするとは、進歩ねぇなぁ」
「あの時とは違うぞ、憲和。だが懐かしいだろう?」
 劉備が笑うと、簡雍は再び肩を竦めた。
 霍峻は眉根を寄せて、ただ劉備の行動を呆然と見守っていた。

『新野の危機に立ち上がる者を求める。民も兵も隔たりなく、新野の仲間を救わんとする者は集りたし。新野城主、劉備玄徳』

 樊城の各所に立てられた、簡素な木の板で出来た立て札に書かれていたのはそれだけだった。
 だが劉備は立て札を立てるだけでなく、自ら馬に乗って樊城の中で民に声をかけて回った。
 義勇軍。劉備は劉表に援軍を頼めないと分かっていたのか、最初からそれを集うつもりでこの樊城に来たのだ。
 樊城内では、明らかに動揺が広まりつつあった。蔡瑁の思惑と違う方向に動く事態に抵抗しようとする守将たち。迷いながらも、現状に対しての危機感を声に出し始めた民たち。
 劉備は守将たちに樊城にいることを拒否され、樊城の外で野営を始めた。野営と言っても、空を遮るためだけの簡素な幕舎を建てているだけだ。野宿とほとんど変わらない。
 立て札を見てすぐに、わずかな人数が劉備の元へ訪れたようだった。守将たちはそれに対して戦時宣言をし、城外へ出ることを禁じた。だが、元々良い噂のなかった守将たちへの抵抗と流れていた噂のためか、民たちは逆に立ち上がる声を増やし始めていた。
 翌日には、劉備の元に集う人間が数百人を越えていた。それを見た守将たちは、早々に立ち札を取り払った。しかし、取り払ってもまた劉備の従者が隙を見て立てる。
 遂には守将たちが兵まで動員して立て札を立てることを止めさせ、さらに城内から出る人間を厳しく取り締まった。だがすでに人の流れは、止めることが出来ないほどの勢いになっていた。
 一つの城の主がここまでするのかと劉備の行動に驚きながらも、霍峻はそれに対して何も出来ていない自分の情けなさに腹が立った。
 樊城の民が。自らの家族を守るために、仲間を守るために立ち上がっているのだ。それなのに、自分はそれを見送ることしか出来ないのか。
「霍峻様! 我らも参加しましょう!」
 旗下の兵の一人がそう声を上げた時、霍峻は胸を突かれる思いだった。
「しかしお前たちは劉表殿の兵だ」
 参加すれば、間違いなく後で軍法会議にかけられる。蔡瑁は、決して許しはしないだろう。
「俺たちは家族が安泰になると思って戦ってるんです! いま家族や仲間たちが危険に晒されてるっていうのに、ここで戦わないでいつ戦うんです!?」
「……」
「それに一番黙ってられないのは、霍峻様でしょう?」
 霍峻は百人の兵を前に、唇を引き結ぶ。
「俺たちのことは心配しないで下さい! 霍峻様!」
「お前たち…」
 百人の兵を見渡し、霍峻は俯く。
 ばらばらになってしまったが、劉表に兵を任されてからずっと付いてきてくれた兵たちだった。
 自分のことを思い、そして家族のことを思い、こうして自らの先を省みず言ってくれる。
 何を迷うことがあるのか。共に戦い、何があっても最後まで面倒を見てやってこその将ではないのか。
「私は劉表様の将だ。その劉表様の名の命を破ることになる。それを問われた時には…」
 霍峻は顔を上げ、兵を見渡す。
「仲間のために戦ったと、誇りを持って共に死のう! 行くぞ! 我らは義勇軍に参加する!」
 おお、と喚声が上がった。百人の声が確かに腹に、心に響いた。
 三日目、霍峻は劉備の元へと百人の兵を連れて赴いた。
「劉備殿、我らも参加させて下さい!」
「おお、霍峻殿!」
 劉備が、両手を広げて迎えてくれた。
 劉備の簡素な幕舎を中心に、驚くほどの人数が集っていた。数百…、いや千を越えているのではないか。
 樊城の東門の先で大地を埋めるその人々は、新野から物資が届けられているのか鎧や武器をすでに装備している。中にはすでに、訓練すら始めている一団もいた。
「よく来てくれた」
「新野の危機を、放ってはおけません。私も、兵も」
 劉備は深く頷き、義勇軍を見渡す。
「もう少し待てばまだ集りそうだが…。時間は待ってはくれん。今日中に出立する。訓練は途上」
 霍峻は頷き返す。劉備が、真剣な眼差しを向けてきた。何か重要なことがあるのかと、霍峻は眉根を寄せた。
「この軍を、あなたに任せたい」
「…は!?」
 霍峻は思わず情けない声を上げていた。
「どうやら、霍峻殿の元で働きたいという者が多く集っているようでな」
 劉備が笑顔を浮かべ、再び義勇軍の方に目を向ける。
 劉備に釣られて目を向ける。すでに訓練を始めている一団。見覚えのある顔を見たような気がした。
「霍峻様!」
 その一団がこちらに気付き、声を上げた。そして、一塊になって近付いてくる。
「…お、お前たち!?」
 その一団は、他の守将の元へ組み込まれた、元霍峻旗下の兵士たちだった。
「必ず来て下さると信じていました!」
「しかし…」
「霍峻様。付いてきた百人と俺たちを差別するつもりですか?」
 兵士の一人が言うと、他の者たちが頷く。
「お前たち…」
 霍峻は、目頭が熱くなって目を逸らした。唇を噛み締め、拳を握り締める。
「まぁた霍峻様は。涙腺が緩いんだから」
「うるさい!」
 兵士たちの間に笑いが起こる。
 痛いほど噛み締めた唇も、強く握った拳も。つい先日までの怒りに任せたものとは違う。
 嬉しさに込める力は、こんなにも心地良い。
 肩に手を置かれ、霍峻は目を拭った。
「やってくれるな霍峻殿」
「…私でよいのでしたら」
 頷く劉備の目は、とても優しいものだった。
「大丈夫だ。戦が終わって何かあれば、私の元へ来ればいい。蔡瑁が何と言おうと、兵は私が預かる」
 劉備の言葉に、視界が一気に揺れる。
「落ち着いてからまた、劉表殿の元へ戻ればいい」
 ぼやけた視界の先で、ただ劉備の顔だけが笑っていた。
「ありがと…、ございまず…!」
 情けなくも止まらない涙を湛えたまま、劉備は義勇軍を霍峻が率いることを宣言した。
 その日の夕方。二千をわずかに越えた兵が、樊城を出発したのだった。


「鵲尾坡の本陣に一万。こちらの本陣との中間に夏侯惇の二万」
 徐庶は言いながら、小枝で地面に線を引いた。後ろは新野。先は鵲尾坡。その地面に引かれた線を目で追うのは、張飛と趙雲だ。
 数日前の一戦では、被害を最小限に食い止めることが出来た。だがその変わり、陣はかなり後退している。夏侯惇はそれに合わせるように確実に軍を進めてきていた。もう五十里も後退すれば、新野が見えてくるはずだ。
 新野には兵を残していない。篭城に切り替えたとしても、新野は地形的に丸裸だ。勝ち目はないだろう。
 関羽軍が本陣を置いているここは、東から北東へと山が伸び、西には長江の支流が近い。敵を惑わす地形を維持するためにも、これ以上後退することは許されなかった。
「次が、総力戦になります」
 徐庶の言葉に張飛がぴくりと眉を上げ、ゆっくりと口の端を吊り上げた。
「今度は全力でいいんだな軍師さんよ?」
 張飛の笑みは嬉々としたものではあるが、人を怯えさせる凄みを湛えている。
 敵を叩くよりも、味方を守るために動く。それを前提においた初戦は、張飛には満足できないものだったのだろう。
「それで勝てなきゃ終わりってことだろ? あ〜あ、やだやだ」
 張飛と打って変わって、趙雲は渋い顔をしていた。
 しかしこんなことを言ってはいるが、夏侯惇の右翼にぶつかる機の読みはさすがだった。張飛の歩兵を囲むことに夏侯惇の目が完全に移った瞬間だったのだ。少しでも機を誤れば、張飛か趙雲のどちらかが逃げ遅れていたはずだ。
「趙雲殿の新兵が上手く動いてくれれば、案ずることはありませんよ」
 徐庶が趙雲に笑いかけると、張飛が鼻を鳴らした。
 趙雲は、新兵の三千を率いている。元々戦力として数えていなかった三千だ。最初から敵に知らせて兵力差を埋めるよりも、趙雲のような細かい用兵が出来る将に任せた方がよほど有用だ。
 その三千は、今は東の山に潜伏している。夏侯惇も当然警戒してはいるだろうが、趙雲の軍の実態はまだ掴んでいないはずだ。
「後は霍峻殿の二千、か」
 後ろから声がかかり、徐庶は振り返る。
 関羽だった。本陣での命令伝達を終えたのだろう。
「その通りです。霍峻殿の二千は大きい」
 劉備が樊城で募兵を行うのは、徐庶が頼んだことだった。しかし義勇兵を募ること事態は別に目的があり、正直な所しっかりとした数が集るとは思っていなかった。
 徳の将軍と呼ばれている劉備の人徳というものを、改めて教えられた。だが、実際にはそれだけではない、と徐庶は思っていた。
「劉備様は?」
「兄者はまた襄陽だ」
 霍峻の二千が動いたことにより、劉表の回りは慌しくなる。特に蔡瑁が黙ってはいないだろう。劉表の耳に入るものにも、変化が訪れるはずだ。
「お前が友で良かったよ…」
「軍師さん、何か言ったか?」
 徐庶の小さな呟きに、張飛が片眉を上げる。
「いえ…」
 徐庶は苦笑しつつ、首を振って答える。
 全ては、樊城に劉備軍が入り込むため。その目的のために裏で動いている男は、一人しかいない。
 夏侯惇を打ち破るのは自分の役割。そして、それを利用し劉備軍を先に進ませるのは孔明の役割。
 孔明はその自らの役割の上で、自分の助けとなるように劉備の動きを支えている。徐庶にはその確信があった。
「霍峻殿の二千はすでに察知されているでしょう。夏侯惇はそのために兵を割くはず」
 徐庶は地面に再び線を入れながら、三将を見回す。
「ちょっと待った軍師さん。どうして夏侯惇は兵を割くんだ? 李典はそのために本陣にいるんだろう?」
 趙雲が疑問の声を上げた。徐庶はわずかに笑みを浮かべて趙雲に目を向ける。
「兵法で重要なことの一つに、大を小に見せ小を大に見せることがあります」
「は、はぁ…」
 趙雲が困惑の反応を示す。それを見て、張飛が大きく笑い声を上げた。
「な、なんだよ!? あんた分かるってのか!?」
「分かんねぇものは聞こえねぇなぁ。てめぇみたいな間抜け声上げないで済むしな」
「なんだと!?」
「やるか!?」
 いきり立って顔を突き合せる二人。その間の地面に、偃月刀が突き立つ。
「止めよ、二人とも」
 徐庶は笑顔でそれを見ていたが、二人が離れたのを見て続ける。
「見えないものほど不安なものはありません。歴戦の将なら尚更です。それは、趙雲殿にも分かるはず」
「そりゃまあ…」
「夏侯惇は兵力差の余裕を持ちつつ、警戒せずいられない存在がある。それは何でしょうか?」
 徐庶が問いかけると、趙雲が唸る。
「敵は我らを五千だと思っていたはずだ」
 趙雲の長考に、関羽が助け舟を出す。
「あ! 俺の三千か!」
「そういうことです。あの時右翼に襲い掛かった一軍が関羽殿の本隊からの援軍か、もしくは別働隊なのか判断付きかねているはずです」
 霍峻が動いたことによって、劉表との協力体勢を示すことになる。つまり、他に劉表の出した軍がいるという可能性が出てくるのだ。
 もし劉表の別働隊だとしたらどれほどの数だったのか。これから何を狙うのか。それは、絶えず頭にしこりとなって残るはずだ。
「霍峻殿の二千と趙雲殿の三千がどう動くかで、戦局は変わります」
「ふぅむ」
「分かったフリしてんじゃねぇぞ」
 からかうように張飛が言うが、趙雲は思案顔のまま取り合わない。その趙雲の様子に肩透かしを喰らったのか、張飛は不機嫌そうに舌打ちする。
「趙雲殿の軍には、一つやってもらうことがあります。後で伝えましょう」
 徐庶の言葉に、趙雲が力強く頷く。
「張飛殿は先と同じく関羽殿と共に本隊の指揮」
「任されよ」
「おう!」
 関羽の落ち着いた声に次ぎ、張飛が嬉しそうに声を張り上げる。
 駒は万全だ。予想を上回った優秀な駒すら手元にある。
 後は、全てをぶつけるのみ。
 高揚が心の奥底から湧き上がり、地面に描いたものが現実の情景となって徐庶の脳裏に浮かび上がる。戦場に立てることほど、昂ぶることが他にあるだろうか。
「軍師さん、また一騎打ち挑もうなんて考えるなよ」
 徐庶の心中を察したのかどうか、張飛が笑いながら言った。
「あの時はしばし、冷静を欠いていました」
 徐庶は思い出し、苦笑しながら答える。
「口調まで何か変わってたぜ。分かんねぇもんだ、人間ってのは」
 張飛が言うと、趙雲、そして関羽までもが笑い声を上げた。
 自分は将ではない。軍を率いるのとは違う役割があるのだ。それをわきまえていなければ、戦場に埋もれ屍を晒すことになる。
 自分の役割。傍らにあることが許される刃。
 それを振り下ろすことだけを、徐庶は改めて自分に言い聞かせるのだった。

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