虎軍の師 第四話

 夏侯惇は幕舎で杯を傾けていた。
 酌をする供回りも遠ざけ、随分と長い間飲み続けている気がする。
 ふと自分の手を見ると、無意識に盃をゆらゆらと揺らしていた。落ち着かないのだと、改めて感じる。
 確実に軍は進んでいた。もう数日で、劉備軍がこれ以上は退がれないという所まで辿り着くだろう。
 だが、全てが順調というわけではない。
 李典がいる鵲尾坡からの連絡が、上手くいっていなかった。
 二日前、一切の連絡が途絶えた。劉備軍の妨害に違いないが、それが可能なのは距離的に東の山、李山だけだ。劉備軍が隠れ潜んでいるということを証明しているようなものだった。
 すぐに伝令を一団に組織し直し、連絡の回数を減らして一度の伝令を強固にした。それを確認している内に、進軍は予定よりかなり遅れを取ってしまっている。
 連絡が取れなくなった所で、李典の援軍がなくとも真っ直ぐに固まって新野を包囲し、落としてしまえばいいはずだった。
 だが、そう単純にはいかなくなっている。
 劉表の将である霍峻という男が、二千ほどの兵を率いて襄陽を出た。新野の西の川を遡上しているようだ。
 霍峻が率いる兵力ではなく、劉表が援軍を出したということが問題だった。
「夏侯将軍」
 声に目を向けると、幕舎の垂れ幕が上がった先で、兵士が窺うように目をこちらに向けていた。
「なんだ?」
 わずかに目を細め尋ねる。兵士が答えようと口を開いたが、その前に兵士の横をすり抜け一人の男が入ってくる。
「ふふ、不安なようですね」
 切れ長の目を弧にを描くように細め、その大柄の体にそぐわない柔らかい物腰の男。
「満寵か」
 夏侯惇は目を酒に戻し、一口煽る。
 兵士に手で合図し、満寵は夏侯惇の前まで近付いてくる。長い前髪をかき上げる仕草が視界の隅に入ると、わずかに勘に触る。
「別働隊が気になりますか?」
 満寵の上機嫌な口調。夏侯惇は答えず、酒を大瓶から盃へと注ぐ。
 満寵は若い頃から有能な役人として名を売ってきて、この軍に参加するまでは汝南にいた。今回の戦に曹操が参加させたのは、やはり気に入っている人間の一人だからだろう。
 大きな戦の経験も積ませておきたいという所だろうが、曹操のお気に入りはいかんせん多過ぎる。今回の戦には、満寵を始めとして他にも若い者ばかり数人が将校として参加している。しかしそのほとんどが、夏侯惇には好きになれない人間だった。
「関羽の本隊なのか、はたまた劉表からの…」
「右翼にぶつかってきた」
 夏侯惇が遮ると、満寵が大仰に驚いたような仕草を見せる。
「突然のことでした。見えたと思ったら、ぶつかられていたんですから」
 右翼を指揮していたのは満寵だった。将を見たとは言うが、昔からの劉備の将ならば特徴を聞けば分かる。満寵から聞いた限りでは、心当たりのない将のようだった。
 援軍を出す関係を劉備が築いているのならば、最初からの劉表の軍かもしれない。そうなれば、当初把握していた五千という劉備軍の兵力は当てにならない。
「霍峻の軍は川を遡上し、東の李山には間違いなく兵が潜んでいるでしょうねぇ」
 言いながら、小さく笑いを漏らす満寵。何が面白いことがあるのかと問い質してやりたいが、そんなことに気を取られるのも馬鹿らしかった。
「でも、劉表は決して劉備に好意的に兵を出しているわけではないと思いますよ」
 夏侯惇は眉をひそめ、満寵を見る。聞いてくれると分かって嬉しいのか、身を軽く乗り出して満寵が続ける。
「だってそうじゃありませんか? 霍峻なんて名もない将ですし、数も知れたもの。援軍は、援軍を出すというそれだけで相手を威圧させるものですから」
 夏侯惇は溜息を付き、盃を傾ける。
「隠れているように見せているのは、結局実がないからですよ」
「そんなことは分かっている」
 夏侯惇は打ち切るように言い放つが、満寵は笑みを崩さない。
「ふふふ、苛立ってはいけませんよ将軍」
「お前が黙れば収まる」
「これは異なことを。私共は国の安寧を求めて逆賊を討とうという同志のはず。共に声を上げ立ち上がらなければ丞相もここまでは来られなかったはずですよ?」
 本当に苛立っているわけではないが、このままの調子で話しているといずれ本当に頭に血が昇りそうだ。夏侯惇はもう一度深く息を吐き、盃の口を親指で撫でる。
「李山に潜む一軍が李典との連絡を絶とうとしているのは確かだ。そして、霍峻は北に向かっている」
 夏侯惇の言葉に満寵が深く頷く。
「注意すべきは正体のはっきりとしない李山の伏兵?」
 にたりと口の端を歪め、満寵が尋ねてくる。夏侯惇は小さく頷き、盃をゆらゆらと揺らす。
 伏兵というには派手に動き過ぎだった。ただ姿を隠しているというだけのことで、存在が分かっている伏兵など意味はない。
 もし李典との連絡を絶つような動きがなければ、李山にいるかどうかは可能性に留まっていたはずだ。油断すれば、横を突かれて少なからずこちらは動揺しただろう。しかし、今となっては李山に兵が潜んでいるのは確実だと言える。
「やはり…」
 夏侯惇は呟き目を細める。その後を引き継ぐように、満寵が口を開く。
「李典殿の陣が狙われていると考えるのが自然でしょうねぇ」
 李典との連絡が絶たれれば、李典の軍も自分の軍も不安は走るだろう。特に、自分の軍にとっては退路を絶たれるということだ。
 霍峻の二千に李典が遅れを取るとは到底思えない。だが、もし劉備軍の本当の狙いが李典の陣を落とすことだったら?
 李山の兵は横から攻めると警戒させ、密かに李典の陣を襲撃する。この時期は北西から風が吹く。李典が李山からの敵に対応する隙を縫って鵲尾坡に火でもかけられれば、李典は陣を放棄する羽目になっていたかもしれない。
「李典殿との連絡を遮断しようとするのも、自身の存在をさらけ出すのもこちらを警戒させる時間稼ぎ。李典殿の陣を陥とし退路を塞ぎ、その上で前後の挟撃…。なるほどぉ、筋は通りますね」
 あはは、と満寵が手を叩いて笑う。
 夏侯惇は満寵の態度に眉をひそめながらも、心中では頷かざるを得なかった。
 こちらはじりじりと圧力をかけながら進んできた。だが、向こうは前後挟撃という形を取るために、更なる時間稼ぎが必要だった。
 はっきりと掴み切れてない存在を警戒させることで、こちらの足を遅らせる。
 見えないものを最大限に使う兵法の初歩。それにまんまと嵌り、自分は思考さえ鈍らされていた。
 やはり、あの男は侮れない。次に一騎打ちでも仕掛けてきたならば、形振り構わず討ちに行く。
 曹操が欲しがりそうな人材であることは間違いないから、もしそうならないのなら捕らえてみよう。
 相手の狙いはほぼ確実に捉えたのだ。必ず、それは出来る。
「満寵。お前に二千を預ける。霍峻を潰せ」
「ふふ、いいですねぇ。所詮荊州の弱兵。最初にがつんと叩いて、後は網でさらっていきましょう」
 李典にもすぐに伝令を送らなければならない。
 先に狙いさえ分かっていれば、李典ならば十分対応できるはずだ。
「では将軍、私は失礼しますね」
 満寵がそう言って、上機嫌で幕舎を出て行く。
 またうすら笑いを浮かべながら、人を斬るのだろう。
 だが、任せて間違いないと思えるのが複雑だった。
「ふふ、今宵も月が綺麗だなぁ」
 小さく、満寵の独り言が外から聞こえてきた。
 劉備との戦という戦冥利と、曹操の望む軍への面倒な保護者役と。その二極の思いだけが、未だ夏侯惇の中で揺れ続けるのだった。


 わずかな高低はあるものの、ほぼ平地と言っていい。
 風が砂を巻き上げ、空を黄色く濁らせる。
 関羽軍と、夏侯惇軍が対峙していた。
 徐庶は関羽の隣に馬を並べて右手に持った鞭を軽く振り、先を左手で掴む。ぱん、という音と共にわずかな痛みを感じた。そこから、高揚を伝って全身に痺れが回るようだった。
 初戦での打撃を鑑みて、関羽軍は五千をわずかに割り、夏侯惇軍は一万七千というところか。
 夏侯惇は鶴翼の陣形を敷いている。張飛にかき乱されることを嫌い、完全に包囲することを念頭に置いたのだろう。
 こちらは魚鱗の陣形で、騎馬を張飛、歩兵を関羽、弓兵を徐庶、という具合に一応の割り振りをしてはいるが、決して固定ではない。状況に応じて、関羽も張飛も動いてくれる。
 先頭に見える張飛の大きな体が、いつも以上の気迫に満ちているのがよく分かる。
「右翼の展開が遅かった」
 関羽が呟くように言った。関羽は、決して正面から視線を外さない。傍にいるだけで、ここまで心強いものなのかと改めて思う。
「霍峻殿の軍に夏侯惇は二千を割きました。満寵という男が率いているようですが…」
「あの時に右翼を率いていたのがその男なら、夏侯惇はバカなことをした」
 関羽との共通見解では、夏侯惇の軍は決して精兵ではないということだった。
 夏侯惇は新兵や弱兵、訓練途上の軍を率いることが多いのだという。初戦での圧力はやはり並ではなかったが、それでも連携にどこか欠けているのは、徐庶も気付いたことだ。
「混戦になれば隙が出来る」
 関羽の言葉に徐庶は頷く。
「趙雲殿が時機を合わせることが出来れば」
「子龍のことだ。上手くやる」
「私も心配はしていませんが」
 そう笑いながら答える。
 趙雲は、劉備軍の古参の将というわけではなかった。劉備が荊州に来る直前に合流してきたという。
 それでも劉備を始め張飛や関羽に信頼されているのは、かつて公孫瓚という将の元にいた時に共に戦っていたからだろうか。
 曹操の元にも、どれだけ趙雲の名を知っている者がいるのか。恐らく、わずかなものだろう。だが、それもそう長くはない。いずれ自然と名が知られる。それだけの実力のある将だ。
 鞭の先を強く握り締め、徐庶は正面に気を向けた。
「動く、な」
 関羽が言った。
 直後、夏侯惇軍を包む空気が張り詰めたのが分かる。
 それに合わせるように、関羽軍にも緊張が走る。敵の微動を感じられる軍。それが歴戦というものだ。
 徐庶は、鞭を振り上げていた。
 はるか先、騎馬が埋め尽くす陣形の奥。見えもしないはずなのに、夏侯惇と目が合った気がした。
 鞭を振り上げた手を、どれだけそのままで止めていたろうか。永遠という気もするし、一瞬だったような気もする。
 太鼓の音が、弾けた。
 どろどろという空を伝う音が振動と共に大地を揺るがし、気勢となって関羽軍を押し包んでくる。
 まるで形を持っているようなそれは、夏侯惇軍の鬼気迫る兵士たちの意思そのものだ。
 それを全身に受けながら、徐庶は冷静に先陣を見極める。
 敵は左右両翼、中央、どれも突出していない。ただ、騎馬が勢いを上げつつ確実に距離を詰めてくる。
 自軍全てに緊張が高まっている。
 騎馬に蹂躙されること、それ以上に怖いものはない。それが刻々と迫る中、徐庶の合図をただ待ち続ける。
 弓を斜め上に引き絞った弓兵が、そのままの構えで微動だにしない。歩兵は盾を構え、騎兵は手綱をさらに強く握り締める。
 まだ。まだ引き付ける。
 夏侯惇軍は騎馬が突出しているように見えて、決して鶴翼を繋ぐ楔を離してはいない。
 敵の兵士一人一人の顔が、はっきりと見えるまでに近付いてきた。馬の蹄が土煙を上げ、そしてそれを自らかき乱していく。
「矢を放て!」
 叫んだ。同時に鞭を振り下ろす。
 銅鑼が大きく鳴らされた。限界まで引き絞られた弦から、一斉に矢が飛び出した。
 舞い上がった土煙を雲散させ無数の矢が宙を駆け、夏侯惇軍の騎馬を狙って真っ直ぐに突き進んでいく。
 だが、徐庶が合図する直前に鐘が鳴っていた。迫っていた騎馬隊は、矢が放たれた時には反転している。数体の騎馬に矢が食い込み崩れる。が、騎馬と入れ代わるように盾を持った歩兵が前面に出てきていた。
 数多の矢が盾に食い込み、その効力を失う。騎馬隊にとって、弓兵を釣るのは絶対不可欠だ。想定の範疇だった。
「張飛殿!」
 鞭を振る。銅鑼が激しくかき鳴らされると同時に、張飛の騎馬隊が動いた。
「うらああああ!!」
 張飛の怒号が、ここまではっきりと響いてきた。
 前面に出てきた敵の歩兵に張飛の騎馬隊が突撃をかける。矢を避け反転した騎馬が、張飛に対応しようと再び反転する。
 張飛が歩兵の前面を削り取るように走り、そのまま反転する。敵の騎馬がそれを追ってくるが、再びこちらからの矢。敵の歩兵が前に出てくる。
 反転、突撃。そして矢の嵐。数度それを続けた。確実に両軍の距離が縮まっている。
 あの大軍を、よくもここまで精密に動かす。徐庶は口の端を吊り上げながら、鞭を振るい続ける。胸が高鳴っていた。弾けるならそれでもいいと思えるほどの興奮。
 この応酬をしながら、夏侯惇は確実に距離を縮めつつ正面からぶつかるのが狙いのはず。だが、夏侯惇からすれば計算ほどにも迫れていないと感じているはずだ。
 必ず、違う動きを見せる。
 こちらも、矢が尽きかけている。我慢比べだった。あと四度、いや三度の応酬が限界か。
「距離は近い! 確実に狙え!」
 叫ぶと同時に左右に目を巡らせる。張飛の騎馬隊と、夏侯惇の先鋒の騎馬隊がお互いの尻尾を掴もうと駆け巡る。矢を放てば引き、追えば返してくる。
 張飛は決して無理強いをしない。それが、いつまでもこの応酬が続くように敵に見せているはずだ。
 弓兵の隊長が、弓を高く掲げた。矢が、尽きたのだ。騎馬を押し留めるものがなくなった。
 だが、我慢比べには勝った。
 敵の両翼が、膨れ上がったのを確かに徐庶は見た。
 隣にいる関羽が青龍偃月刀を掲げ、馬首を巡らせたのが視界の隅に入る。
「軍師殿、二百を借りる」
 関羽が言い、徐庶から離れていく。血の汗をかいたかのような赤く大きな馬と共に、戦列から外れていく。
「頼みます、関羽殿」
 夏侯惇が、先に動いていた。
 鶴翼の両端を切り離したのだ。三千ずつといったところか。関羽軍に中央から圧迫をかけながら、左右から包囲しようというのだろう。
 関羽が、二百の兵と共に右翼に向かった。右翼の三千を止めるためだ。もちろん、いくら関羽であっても耐え切れるはずがない。初戦の時の張飛のように、囲まれれば兵がやられる。
 さらに、左翼は対応しきれない。迫りくる左からの圧迫に押され、それを察知した敵の中央までもが勢いを持ち始める。
 こちらの矢は尽きていた。ぶつかり合いになるのは目に見えている。徐庶は鞭を左手に持ち替え、右手で剣を引き抜いた。
 まだ、いくらも敵を減らしてはいない。相手の勢いも挫いてはいない。張飛と関羽がいくら奮戦しようと、揉み合いになれば敵の騎馬隊に対抗する術はない。囲まれ揉まれて、潰される。
 夏侯惇が敷いた、鶴翼の陣形。
 大軍で小勢を包囲するためには適している。騎馬では使いにくい陣形だが、それをやって見せるのが夏侯惇という将だろう。
 現に、包囲を止めることが出来ないでいるのだ。初戦とは違い、退がることは許されない。
「前面の敵を追い返す! それだけを考えろ!」
 徐庶は弓兵に剣を抜かせ、自身も前に馬を進ませる。
 先頭にいる張飛が、騎馬隊の後方に歩兵を加えた。関羽が外れたいま、自分が残りの全軍を指揮することになる。総攻撃への編成だった。
 張飛が、敵の先頭とぶつかった。中軍に進み出た徐庶にさえ、ぶつかり合いの波動のようなものが襲いかかってくる。剣戟の交わされる音が場を瞬間的に支配する。
 ぶつかれば、敵の包囲を止めることは出来ない。夏侯惇の選択は、決して間違っていない。
 だが一つ言うならば、夏侯惇は完全に左右からの攻撃という可能性を除外している。
 楔で繋がっている鶴の翼は、その一点を壊されれば無残にも千切れ飛ぶ。
 小を大に見せ、無を有に見せる。夏侯惇は、その罠に嵌った。
 敵軍に動揺が走ったのが分かった。
 張飛がぶつかった勢いではない。
 東、李山の方向。
 山に吹きかけるようにして舞い立つ土煙。そして、それが収束する一点。
 鶴の翼を断ち切る一軍が、躊躇なく夏侯惇軍の左翼に突撃していた。
 夏侯惇の陣形を割ったのは、初戦と同じく趙雲の一撃。
「ここからだ」
 徐庶は、小さく呟いていた。

 左右の三千を切り離したのは、決して間違いではなかったはずだ。
 向こうはあくまで小さく固まり、こちらの攻めを凌ぎつつ反撃を窺う体勢だった。左右両翼を切り離して手早く包囲することは可能だったはずだ。
 切り離した左翼の三千に対して関羽がわずかな兵で止めにかかったのを視認したとき、夏侯惇は敵が万策尽きたのだと思った。
 関羽はこの戦で総大将のはずだ。それが、中心から抜けた。
 右翼の三千は、関羽軍の本隊に取り付けるはずだった。中央の軍もそれで勢いを増した。どっと軍に力が湧いたのを感じもした。
 だが左翼の端を切り離してからすぐ、本隊に繋がる左翼がわずかに崩れたのを、夏侯惇は気付いていた。
 訓練途上の経験不足がここに来て大きく出たのだ。包囲したとき、その隙間から敵は突破口を見出すことも出来る。
「左翼! 突出しすぎるな!」
 叫びながら、夏侯惇は何とも言えない悪寒に襲われていた。その悪寒が予感ではなく自分の感覚が示す根拠のあるものだと気付くまでに、そう時間はかからなかった。
 左後方。風を感じて夏侯惇は首を巡らせていた。
 李山が、砂塵に隠れていた。
「伝令! 李山より新手!」
 呆然としたのは、一瞬だったはずだ。やられた、と舌打ちするより先に再び叫ぶ。
「左翼は何をしている! 繋がれ、隙を作るな!」
 李山にいる伏兵は、李典の陣を狙っているものではなかったのだ。
 しかし夏侯惇がどんなに叫ぼうとも、すでに勢いを増した軍はそう簡単に戻らない。
 為す術もなく、見事に鶴の翼の隙間に入り込まれていた。軍全体が揺れた。左の翼はもぎ取られたも同然、その上に中央が横から圧迫を受けたのだ。右方向に、軍が傾いた。
 食い込んできた一軍は、しかし側面からの中央突破に固辞せず、左翼を切り離して離れていく。鬱陶しい動きだった。好き放題に入り込まれ、掴み返そうとしたら消えている。そんな感覚だった。
 苛立ちに任せ、夏侯惇は右手の槍を離れていくその一軍に投げ付ける。放物線を描いたその槍は、確実に離れていく一軍の最後尾に突き立つはずだった。
 だがその槍は弾かれ宙を舞い、地面に突き立つ。
 兵が入り乱れる中、それを弾いた一人の将らしき男が、はっきりと見えた。かっと夏侯惇は残った右目を見開く。
「貴様! 名は!?」
 夏侯惇はあらん限りの声を張り上げ尋ねる。
「俺の名前? 趙雲子龍だ」
 小さく、何とか聞こえる程度の声が、あっけらかんとした口調で返ってきた。
 聞いたことのない名。いや、頭のどこかにある。しかし、覚えているほどの価値のない名。そのはずなのだ。
 その男は、名を聞かれたことにも答えたことにも興味がないといった風に、再び軍の中に埋もれていく。苛立ちが更に募った。
「落ち着け! 新手は小勢だ!」
 自身を落ち着かせるために、夏侯惇は叫ぶ。
 まだ踏ん張れる。敵の攻め手はこれだけのはずだ。
 左翼は趙雲という男の軍にもがれた上に、関羽との挟撃で大打撃を被っているのが見える。だが、まだ決着は付いていない。右翼を中心に立て直し盛り返すことが出来れば、まだ五分の勝負が出来るはずだ。
「慌てるな! 陣形を立て直せ!」
 夏侯惇は、腰の剣を抜き馬を走らせる。好きに中央で暴れている張飛を自ら止め、勢いを取り戻すためだ。夏侯惇の回り、軍の中核を為す部隊は精鋭だ。張飛を止めることも出来る。
 一度崩れ始めた軍は脆い。それでも、立て直してみせる。
 夏侯惇は、全ての意識を正面に集中させた。
「この俺が、何度修羅場を潜ってきたと思っている…!」

 霍峻は駆け続けていた。
 後ろに、敵が追ってきているだろうことは考えていなかった。
「皆、もう一踏ん張りだ! 新野を救うため、走り続けよ!」
 まともな戦力は、元々配下だった五百の兵のみ。途上で出来た訓練といえば、走ることだけだった。
 新野の西、長江の支流で満寵という男と河を挟んで対峙していたのは、半日前のことだ。
 初めて敵を前にして緊張する霍峻の軍に、劉備軍の軍師である徐庶から来た伝令は、合流のために夜半の内に出立せよというものだった。
 慎重を期して百人ずつ、夜中に陣のかなり南から渡渉させた。陣には百人ほどを残し、陣にいると見せかける動きをさせた。
 しかし、いつまでも騙し通せるはずはない。満寵という男は、気付き次第追ってくるだろう。
 自分が率いているのは、あくまで義勇兵だ。村人が入り混じった兵士は、追われていると知った時点で士気を失い、ばらばらになるのは目に見えていた。
 だから霍峻は馬を捨て、他の兵士と同じように自らの足で走った。
 無茶な命令だった。だが、とても勝てないと思わせる戦に勝とうというのだ。どんな無茶でも、通さなければならない。
「勢いを落とすな! 走り通して始めて、新野を救うことが出来るのだ!」
 一人、また一人と脱落者は現れた。どれだけ走ればいいのか。自身でも、足がもつれそうになる瞬間があった。
 それでも、走り続けなければならない。
 何のために立ち上がったのか。何のために、劉表の命令を無視してまで軍を出したのか。
 元々の兵士も、農民であったものも、それが分かっているはずだ。それが、義勇軍だった。同じくする確固たる目的のために、益不益を鑑みず共に戦うことを受け入れた軍。
 だから、霍峻は走らせた。自身が感じる疲労がどれだけ辛くとも、鍬を持って田を耕す者がそれ以上の苦痛を感じていようとも、ただ先頭に立って走った。
 半日近く走り続け、だんだんと何もかもが分からなくなってきた。きっと、皆同じに違いない。
 何のために走っているのか、それも分からなくなってくる。ただ走った。
 あるのは、自身の足と重い甲冑、そして手に携えた武具。
 それも次第に分からなくなってくる。手に持つ武具の感触も、甲冑の重さも意識の彼方に消えていく。自身の足さえも、動いているのかどうかはっきりとしない。
 視界がおぼろげになっていく。どこを走っているのか。どこへ向かっているのか。他の者が本当に付いてきているのかどうか。それもはっきりとしない。
「走れ! 足を止めるな!」
 自分が何を言っているのかも分からない。ただ、口が動いているのかと自身でかすかに自問するだけだ。
 何が見えているのか。何が先にあるのか。
 黄色い砂塵が渦となり、後ろへと駆け抜けていく。それは頬を撫でると共に、耳にかすかに音を伝えた。
 急激に、視界が明瞭になっていく。
 頭の中に、今までに感じたことのない何かが溢れ出してきたようだった。土は、こんな色をしていたのか。空は、こんなに近くにあるものだったのか。
 悲鳴と気迫の声、全てが頭の中に流れ込んでくる。鉄と鉄が交わる音は、体の芯にまで響き、痺れさせる。
 万を越える人が、土を自身の体と流れ出る血で覆っていた。戦況など分かるはずもない。ただ、敵が眼前にいるのだと頭の中で何かが騒ぎ立てている。
「見えたぞ! 敵だ!」
 振り返りつつ叫ぶ。
 霍峻はまるで何年かぶりに振り向いたような感覚を得た。振り向いた先にあるのは、しかし出立した時とさほど変わらない光景。ただ一つ違うのは、誰もが目に鋭い光を湛えていたことだった。
 その光は、決して希望が満ち溢れたものではない。何かに飢えた目。完全に何かを喪失し、それが何かを探し追い求める目。それを見、霍峻は再び前に顔を戻す。
 労うことなど、必要なかった。
 陣形など、頭によぎることすらなかった。
 ただ霍峻は、最後に叫んだ。
「突撃!」
 突き出した短槍が、一人の兵を貫いた。それを引き抜きながらも、霍峻はただ足を前に出した。
 そこは、走り続けるための戦場だった。
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