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虎軍の師 第五話

 何が起こったのか、一瞬判断が付かなかった。
 分かったのは、ただ完全に自分の軍が崩れたというその一つの事実だけ。
「て、敵の援軍だぁ!」
 叫びが聞こえたが、今更だった。
 夏侯惇は中軍にまで出てきていた。張飛が暴れまわっている所まで、もう少しというところだったのだ。
 左翼に取り付いてきた軍とは、勢いが違った。
 攻める、破るという類のものではない。突き進んでくる。そういう言葉しか、夏侯惇の頭には浮かばなかった。
「霍峻の軍…か!?」
 呟き、はっとした。敵の、あの軍師の、真の目的。
 その軍は、緩んだ陣形の隙間を縫うということもせず、陣形すら組みもせず、夏侯惇のいる最も堅い中軍に向かって矢のように突き進んでくる。
 自軍の兵士たちは、前を向けばいいのか横を向けばいいのか、それすら見失っていた。新手に対応することも出来ず痛手を被り、道を開ける。その道は、夏侯惇の前へと続いていた。
 先頭の男は、汗と血に塗れ、足取りも定かではないように見えた。将だと分かるのは、ただ着けている兜だけ。それ以外は、後ろに続く兵士たちと、何ら変わりのないように見えた。
 どこか、荒んだ目の光を湛えている。
 その将が左右に兵士を斬り倒しながら、夏侯惇の間合いにまで食い込んできた。
「霍峻か!?」
 夏侯惇は叫び、剣を振り下ろした。
 霍峻であろう男はそれを一度手に持つ短槍で弾き、夏侯惇と目を合わせた。夏侯惇の質問には答えない。
 夏侯惇は再び剣を横薙ぎに斬り付ける。確かな手応え。
 血飛沫が上がった。霍峻の左腕から鮮血が噴出す。だが、霍峻はそれで足を止めることはなかった。
「進めぇ!」
 それどころか、後ろを振り向き叫ぶと、更に勢いを増して足を踏み出していく。
 嵐のような軍。それが、自分の陣形を完全に突き破ったのだ。
 霍峻に続く兵士を、夏侯惇は幾人も斬り倒した。しかし、新手の兵士たちは全く足を止めようとしない。自軍兵士の間に潜り込み、武器を振り回し、右から左へと駆け抜けていく。
 完全に、自軍は混乱の渦中だった。
 強引に突き破られた右翼には張飛の騎馬隊が間髪入れずに突撃をかけ分断されている。左翼は、付いては離れを繰り返す趙雲という男の軍にかき乱され、更に関羽が率いるわずかな兵により追い散らされ始めている。
 夏侯惇は、剣を持つ手の震えが止まらなかった。
 左目に何か液体が溜まり、ぐつぐつと煮えているようだった。
「か、夏侯将軍!?」
 供回りの兵士たちから制止の声が上がるが、夏侯惇は一切聞く耳を持たない。ただ馬を叱咤した。傷付いた味方を馬の脚がかすめる。回り全てが敵に思えるようなこの状況で、夏侯惇はただ前進した。
 中央最前線。
 混乱する自軍の兵士たちが、次々と倒れていく。
 相手が混乱しているというのに、最小の部隊単位での編成すら崩さず、的確に追い討ってくる敵。
 それを指揮している者が、最前線にいた。
 軍師と言いながら最前線まで出てきて、自ら剣を振るっている男。
 長い髪に頬に大きく走った醜い傷。それでも整った顔立ちは戦場に似合わず、振り乱れる髪は戦場の機微を得て踊っているかのようだった。
「劉備軍に軍師などいらぬ!」
 夏侯惇は、敵の最中に飛び込むほどに突出し、その男に肉薄する。振り上げた剣を、その脳天に叩き付けてやらなければ、気が済まなかった。
「軍師がいた方が、戦は面白い」
 徐庶の声にかっと血が昇り、そのまま剣を叩き付ける。
 ギンッ、という音と共に弾かれた。横薙ぎの鋭い一撃が迫る。夏侯惇はそれを柄で受け止め、強引に振るった。徐庶の体勢が崩れる。追撃の一閃。かわされた。
「貴様だけは殺しておく!」
 徐庶が剣を斬り上げてくる。同時に、夏侯惇は剣を突き出した。
「させぬ」
 音も立たず、夏侯惇の剣は止まっていた。徐庶の斬撃も、夏侯惇の胸元で止まっている。
 徐庶の顔を覆い隠すように、幅広の刃が夏侯惇の突きを受け止めていた。
 青龍偃月刀。関羽だった。
「関羽…!」
「無茶をしたな夏侯惇」
 関羽の偃月刀が動いた。一瞬。夏侯惇は馬にしがみ付くように体を縮めた。激しく風を切る音が耳に響く。
 一対二。しかも、一人は関羽だ。いや、それ以前に自分はほぼ敵兵に囲まれている状態なのだ。ただ供回りの数十騎だけが、自分の背後を守っているだけ。我に返った時には、いつも遅いのだ。
 夏侯惇の後悔を裏打ちするように、関羽がふわりと偃月刀を上げた。背筋にぞわりと虫が走る。張飛の剛直の一撃ではない。確実に、命を絶ちにくる一撃。
 剣を構えようとした瞬間、夏侯惇を守るように一人が横から飛び出した。が、夏侯惇よりも前に出た直後にその首が飛ぶ。じわりと、掌に今までかいた以上の汗が滲んでくる。
「夏侯将軍!」
 夏侯惇の前に、三騎ほどが飛び出てきた。その内の一人が、関羽に槍を向けながら続ける。
「後方より李典殿の援軍! 右より満寵殿の軍も近付いています! 命令を!」
 李典が!
 夏侯惇は、心の奥底から叫んでいた。
 李典は、こうなることを遠くから見て気付いていたのだ。
 満寵の二千も、敵の横腹を突ける。
 まだ戦える。そう確信し、夏侯惇は手綱を引く。
「すまぬ!」
 夏侯惇はそれだけ言い残し、馬首を巡らす。
「逃げるか夏侯惇」
 関羽の声と配下の悲鳴。偃月刀の刃が、夏侯惇の右耳をかする。貫かれたであろう配下の血が、その刃にはべっとりと付いていた。
 だが、夏侯惇は振り向かなかった。
 残りの供回りと共に敵を斬り倒し、自軍に走る。
 退却の鐘を鳴らさせ、李典の援軍の元まで引けばいい。満寵と共に、もう一度二方面からの攻撃を仕掛ける。そのために、夏侯惇は叫んだ。
「退却の鐘を鳴らせ!」
 そして、勢いに乗った敵を見るのもこれまでと、後ろを振り仰ぐ。
 新野が遠くに見えるはずだった。かすかに、その遠望を現しているはずだった。
 夏侯惇は、だらりと腕を下ろした。剣を落とさなかったのは、ただ今まで戦場で生きてきた慣習というだけだ。
 はるか先に見えたのは、その遠望の新野を覆い隠すほどの大軍。
 その軍が掲げるのは、劉の旗。
 あくまで合流のための鐘は、退却の鐘以外の何物にもならなかった。

 全ては、夏侯惇の本隊を叩くため。
 それだけに集中した徐庶の策に、夏侯惇は嵌った。
 小勢の関羽軍が絡め手を使ってくるであろうこと。存在がはっきりとしない一軍。
 そして霍峻の動きに釣られ、こちらの狙いを読み誤った。
 当初は三万対五千という圧倒的な兵力差であったものが、気付けば一万七千対一万にまでその差は縮まっていたのだ。
 二倍に近い兵力差であれど、左右からの挟撃、しかも予想していない状況であれば、脆く崩れる。それは、前方に広がる光景が示していた。
「趙雲殿と張飛殿の軍は追撃を」
 徐庶は伝令にそう伝える。関羽軍の本隊と、霍峻の軍は集結して待機だ。
「あのまま夏侯惇を追うかと思いました」
 徐庶は、隣にいる関羽に言った。眼前に広がる全てを睥睨するその姿は、最初から最後まで変わらなかった気がする。
「無茶をする軍師がいる」
 関羽がそう返してきて、徐庶は苦笑いを浮かべた。
 夏侯惇は徐庶の前から姿を消し、そのまま四散する軍と共に追われ続けている。
 李典の軍が救援に駆け付けたのは予想できたことで、苦しくなるであろうとは思っていた。遠くから状況を見る分、冷静な判断が出来る。李典は、徐庶の狙いに気付いていたのだろう。
 しかし、徐庶の予想だに出来ていなかったことが、その状況の変化を許さなかった。
 後方、新野城から湧き出るように現れたのは、二万もの大軍だった。
 夏侯惇は李典と合流して体勢を立て直そうとしたはずだ。こちらも、それに対応する策を考えねばならなかった。だが、後方の二万の存在が敵の意気を完全に挫いた。
 二万の軍は新野の前方に留まり、追撃に加わることなく威容を正しているだけだ。
 徐庶は、霍峻の軍と関羽の軍が纏まるのを見る前に軍を離れる。霍峻の軍から、一人左腕を抑えてふらふらと出てくる男がいた。霍峻だとすぐに分かった。
 徐庶は、馬に乗って近付く。
「徐庶殿…」
「霍峻殿。よくやってくれました。予想以上の戦果です」
 霍峻のあそこまで烈しい突撃がなければ、また状況は変わっていた。だが、霍峻はそんなことを顧みる気などないらしく、むしろ後方の兵士たちに気を取られているようだ。
「あれは…」
 霍峻と同じく、徐庶もそちらに目を向ける。
 二万の軍から、二騎が進み出てくる。徐庶は霍峻の歩に合わせながら、馬をそちらに進めた。
 まだその二騎とそう近付いていないところで、霍峻がはっとしたのが分かった。そして、息を呑んだのが。
 ぽつりと霍峻は呟き、そして歩を遂に止めてしまった。
「劉表…様…」
 まさしく、劉表だった。徐庶も数度しか会ったことはない。だが、その姿は忘れようもない。
 少し体を傾け、苦しそうな表情をしている劉表。そしてもう一騎は、それを支えるように背に手を当てている。劉備だった。
 劉備が、徐庶に目だけで頷きかけてきた。徐庶は馬を降り、拝礼で返す。
「劉表様!」
 霍峻が左腕の痛みも忘れたように駆け出し、劉表の前に跪く。
「霍峻…。私は、老いてはいないか…?」
 軽く咳き込みながら、劉表が呟いた。霍峻は、目を細め何度も首を振っている。
「劉表殿。あなたは変わりない。初めて会ったあの頃のままだ」
 声の出ない霍峻に代わって、劉備が言った。
 忘れようもない劉表の姿。齢六十を越えようというのに、まるで三十を過ぎたばかりかのような若さ。
 全てを自らの姿を維持するために費やしてきた荊州の主は、その言葉に満足げに笑顔を浮かべた。
「私は、劉の近き血族…。病で弱っているとはいえ…、私の行いは間違っていないということだな…」
 悪しき行いは人を老いさせ、正しき行いは人を活かす。劉族の本流に近い末裔ならば尚更だ。それは、劉備から伝え聞いた劉表の口癖だという。
「はい…! 直々に、援軍を出して下さったのですね…」
 霍峻の声が震えていた。
「情けないことだ…。伊籍に言われるまで、気付きもしなかった…」
 時折苦しげに呻く劉表は、よく出てきたものだと思うほど、弱っているようだった。
「しかし出てくる必要も、なかったか…?」
 劉表が、劉備に向けて苦笑して見せた。
「そんなことはありません。ですが、私の軍師がその才を存分に発揮したのも事実です」
 劉備が目を向けてきた。釣られるように、劉表も目を向けてくる。
「私も、正直勝てるとは思っていなかった…。優秀な軍師であるのだと、劉備殿の言葉を心底理解致しました」
 霍峻も、目頭を拭いながら笑顔を向けてくる。
 突然向かってきた矛先に、わずかに困り顔を曇らせてしまう。自分は、ただ自分の本分を果たしただけなのだ。
 徐庶はゆっくりと首を振り、ただ深く拝礼をして返した。
「ただ劉備軍の将が、虎の如き者たちばかりでしたので。その力でありましょう」
 劉表が、満足げに頷いた。
「そなたは虎の将帥であるのだなぁ」
「虎を飼うものほど恐ろしい者はおりませんな」
 劉備が言うと、劉表が弱弱しく声を上げて笑った。
「虎軍の帥、徐庶元直…。天晴れであったな」
「はっ」
 劉備と劉表の前で、徐庶は跪いた。
 虎軍の師。
 大袈裟だが、聞こえは悪くない。
 そう思い、徐庶はふと笑ってしまった。


 張飛、趙雲の軍が夏侯惇軍を追い散らし、李典の陣をも焼いた。鵲尾坡の途上まで追撃は続けられ、戦果はかなりのものになった。
 圧倒的戦力差のあった劉備軍対夏侯惇軍という構図は、劉表軍の介入という形で終止符を打ったが、それでも劉備軍の圧倒的勝利という事実は変わらない。
 戦だけを見れば、狙い通りだった。だが、それとはまた違う次元での要素が多く現れた戦だったと、徐庶は思う。
 投降兵や投棄された武具の回収、点検。大まかな部分は徐庶が行ったが、もう少し細かい部分や兵糧のことなどは、関羽と文官が協力してやってくれる。
 この戦を、曹操がどう見るかは分からない。劉備軍に対する警戒を強めるか、想定の範囲内と捉えて動いてくるのか。いずれにしろ、次の戦では今回以上の兵力差があるはずだ。次は勝てるのか。勝つ以上に、何かを得ることが出来るのか。
 新野の施政区画の一室に向かいながら、そんなことを考えていた。
その一室に入ると、一人忙しそうにしている孔明の背が見えた。
「他は出払っているんだな」
 徐庶が壁に背を預けながら声をかけると、孔明は首を軽く動かしただけで、小さく頷いた。
「糜竺殿たちは樊城に入る準備を進めているよ」
 劉表は劉備に樊城に入ることを許可して、霍峻を伴って襄陽に帰っていった。霍峻は蔡瑁の行動が気になっているだろうが、劉表と一緒にいれば大丈夫だろう。
 荊州は曹操に降伏しようという声が多い。結局、曹操に対するためには、客将である劉備の存在が必要なのだ。劉表の最後の望みが、劉備という客将の独断での抵抗なのだろう。
 盾であろうとなんだろうと、樊城に入ることが出来る。新野と樊城を行き来するだけで、兵も兵糧もぐっと増える。
「虎軍の師、か。元直にはぴったりかもしれないね」
 筆を動かしながら、口調だけ楽しそうに孔明が言った。
「止してくれ。言われた時はいい気分にもなったが、格好が良すぎる」
 孔明が笑った。徐庶は、背越しに見えるはずもないのに、苦笑を浮かべてしまった。
「霍峻殿の軍も、劉表殿も、予想外のことばかりだった」
「でも、それがなくても元直は勝っていたよ」
 しかし、勝つことだけに意味はない。荊州のために兵と戦おうという、兵に慕われる一人の武将を見つけた。新野、樊城での劉備の声望を更に増やした。そして、樊城に入る切っ掛けを得た。
「お前が、劉表殿を動かしたのだろう?」
「僕じゃない。この荊州を大事に考えている良臣に、劉表殿と話す機会を与えただけだよ」
 劉備軍だけでなく、霍峻が軍を率いて出たことによって、一気に荊州の諸豪族から不満の声が上がったという。曹操がいつ南下してくるかというこの時勢だ。それは今までにない勢いだったのだろう。
 蔡瑁はそれを宥めるため、襄陽を離れた。劉表と話すために蔡瑁に取り次いでもらうというおかしな構図が、一時的に消えたのだ。
「お前には敵わないな」
「僕もだよ」
 孔明が、筆を止めて上体だけ振り返った。
「実戦の指揮では、元直に勝てる自信がないよ」
 自信がないだけだろうと苦笑したくなったが、口には出さずただ笑みを浮かべた。確かに、紙一重のところで自分が勝つかもしれない。
「今日は少し遅れた戦勝の宴だ。お前も参加するだろう?」
「え…。いや、僕は…」
 孔明の筆が、再び止まった。
 誰も知らないのだ、と徐庶はふと思った。
 この勝利の裏で、その道標を作った男がいることを。
 説明すれば、きっと宴の主役にもなれるだろう。だが、そんなことを望む男ではない。中心にされる怖さが先に立つはずだ。
「末席で、二人でゆっくりと飲もうじゃないか」
「でも、元直はきっと主役だ」
「それを肯んじると、張飛殿にしこたま飲まされて大変なことになる」
 孔明が、小さく笑ったようだった。
「なぁ孔明」
 小さく呼びかけた。孔明から返事は返ってこない。聞こえていないのかもしれない。ただ、筆の動きが速くなったように見えた。宴に参加する気が出たのだろうと、少し嬉しくなった。
「お前が共にいてくれて良かった」
 その才がどこまで届くのか、ずっと見てみたかった。
 そして、今は劉備という天下へ押し上げたい主がいる。
 その舞台に共に立ち、しかし隣にいるからこそ出てくる焦燥もあった。
 置いていかれるのではないか。この男がいれば、自分は必要ないのではないか。
 戦は、勝つことだけには意味はないという。だが、違った。
 今回の戦に勝ったことで、自分は自分の刃を証明できた。
 その刃を更に鋭くしなければならないという重圧は、自分には心地よかった。
「敵わないが、負けたくもないな」
「え?」
 孔明が振り返った。徐庶は笑顔で首を振り、もたれた背を壁から離す。
「孔明、きっと劉備様を天下へと導いてみせよう」
 強く言った。孔明はすぐには答えず再び前を向き、ぽつりと呟いた。
「…そうだね」
 相変わらず、自信がなく言い切れない男だな。徐庶はただそう思った。
「さて、そろそろ行こう孔明。仕事はまた明日に回せばいい」
「…う、うん」
 わずかに気後れしながらも、孔明は筆を置いて立ち上がった。
 今日は久しぶりに、たらふく飲むことになるかもしれない。
 その恐ろしい予想とは別に、気分は良かった。
 天下は決して遠くない。そう、強く思えるのだ。
 徐庶元直。建安十年(二〇五年)に劉備軍に軍師として参入する。
 しかし三年後の建安十三年、劉備軍を離れ、曹操軍に陣営を移すこととなる。その後の消息は、定かではない―――。
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