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第一章 第一話

 小さな居酒屋だった。
 客も少なく、建物もとても奇麗とはいえない見た目だが、店主には馴染みにしてもらってよくしてくれるから、いつもここだった。
「なあ、私はどのくらい出世できると思う?」
 随分飲んで顔が真っ赤になっている、公威が言った。孟公威。今日は彼の誘いだった。
「どうせお前は世に出る気はないのだろう? そんな質問に意味はない。なあ?」
 隣に座った元直が肘で小突いてきた。
「そ、そうだな…」
 元直の言葉に反して、少し考えてしまう青年。顔が、うっすらと赤かった。
「州の刺史か…、郡の太守にはなれると思う」
 言うと、公威は驚いた顔をした。世は数多の群雄が並び立っては破れ、消えていく時代。人々の才のあり方は争いとして激化し、その中で自分の才を遣い、強い権力を得ていくことはそう簡単ではないと彼も分かっているからだろう。
「なら孔明、お前自身はどこまで出世すると思うんだ?」
 酒には強い方ではなかった。それでも今日は気分よく飲んでいて、少し豪気になれているとは思ったのに、
「僕は…」
 苦笑いが出てしまった。自分が情けないと感じずにはいられなかった。
「相変わらずだな、孔明」
 ばん、と元直に背中を叩かれ、孔明は持っていた盃を取りこぼした。
 その盃を拾いながら、士元がここにいればもっと楽しかったろうに。ふと、そう思っていた―――。


「孔明様、徐庶様が訪ねてこられました」
 孔明は、畑を耕していた。鍬を地面に立て、額に浮き出た汗を拭う。長い髪は土に汚れていたが、不快ではない。日差しが眩しかった。声が聞こえた方を見れば、月英が畑のほとりに立っていた。
 結婚して、まだ五年も経っていない。いい妻だった。容貌は決して美人ではないが、月英自身が流した噂ほど悪くなく、その笑顔は孔明の心を落ち着かせる雰囲気を持っていた。そして何より、頭がよく働く。孔明の教えることもよく吸収し、引く所とそうでない所をよくわきまえていた。
「珍しく服装を整えられていました」
 徐庶と最後に会ったのは一年近く前だろうか。何の話か分からないが、身なりを正しているならそれなりに大事なことなのだろうと思う。いい機会だった。話したいことは、孔明にもあったからだ。
 鍬を月英に渡し、孔明は少し離れた草庵に向かった。
 荊州の州都・襄陽から西二十里ばかり離れた所に、孔明の草庵はあった。
 質素な家だが、近所との付き合いもあり、無理に町に出なくとも生活できる環境であった。晴れの日は田を耕し、雨の日は書物を読む。草庵に居を構えてからは、そうやって暮らしてきた。
「ごめん、待たせてしまった」
「いや、気にしないでくれ」
 客間に通された徐庶は、月英の言ったとおり正装だった。昔役人に追われる前に負った顔の傷が目立つが、奇麗な顔立ちをしている徐庶は、なかなかの美男子である。若くは任侠の徒と交じり、人を斬って追われた後は、荊州の有士・司馬徽門下で学問を習い、今は全国を放浪しながら遊学をしていたはずだ。
「久しぶりだね」
 できる限り、微笑みを浮かべて言った。どう自分の言いたいことを切り出そうか、それを考えていた。
「ああ、もう一年近くになるか」
「州平が以前訪ねてきたよ。元直に会いたがっていた」
「そうか。なかなか会う機会も少なくなってきた。これからは会うこともないかもしれない」
 徐庶が手を上げて、自分の掌を見つめていた。若い頃からなのか、何か大事なことを言う時の癖だった。何を言う気なのかは分からないが、わざわざそれを言うために自分を訪れてくれたのだろう。お互いに、無二の親友だった。
 孔明の手に、軽く汗が滲んだ。徐庶が言う前に自分から話してしまおうか。そう思ったら、胸の鼓動が速まった。
「新野の劉備殿に仕官してみようと思う」
 風にさえ流されてしまうように小さく、徐庶が言った。
 孔明の心に、さざ波が立った。沸き立つ思いは、自分自身すら形に表せないように靄がかかっていて、ただ手に滲んだ汗が、熱を持ち始めたのに気付いた。
 誰かに仕官するなどということよりも、気ままに生きていることが楽しいと思う人間のはずだ。その徐庶が、仕えるべき求めるべき主を見つけたというのか。
「その…、劉備という人は領土を持たないのに、天下に名が知れ渡っている。反対はしないし、君の才能は十分生かせると思うけど…」
 少し俯いて、孔明は言葉を止めた。何のために自分はこんなことを言うのか。自分の心の靄がうずめいているような気がして、徐庶と目が合わせられなかった。
「言いたいことがあるのか? 言えばいい」
「…でも、劉表から与えられたのは新野城。曹操の盾となる位置にいる、最もいま危険な場所…。どうして曹操でなく劉備なんだい…?」
 建安五年(二00年)、曹操は河北最大勢力であり、数倍の兵力を擁していた袁紹を破った。まだその領地を制したわけではないが、袁紹の息子は家督争いで内輪揉めを始め、袁家の衰退は目に見えていた。つまり事実上、いまこの国の最大勢力は曹操だということである。
「一度な、見に行ったのさ。話もした。何か、惹かれた」
「惹かれる…?」
「ああ、この人のために働きたい、そう思わせる人だった」
 劉備軍の幕僚に旧知の者がいて、それに案内されて会ったのだという。しばらく、徐庶が黙った。そして、その視線が顔を上げた孔明の眼を捉えた。
「孔明…。お前も来ないか?」
 突然だ、と思った。
 まったく予想できない言葉ではなかった。しかし、無意識の内に眉根を寄せていた。疑問が沸き起こる。
なぜ、自分を誘うのか? 無二の親友だからか? そんなはずはない。
 心の波が、高くなった。自分が伝えたかったことは、その波に打ち消されていた。そしてそのまま、激しく孔明の意識を、思考を揺さぶった。痛み。それに近いものが、孔明を襲っていた。
「ぼ、僕は…」
 頭に巡るのは、陣頭に立つ自分。大勢の中にいる自分。人に意見を言う自分。どれも、臆病でやりきれない自分しか想像できなかった。
「管仲、楽毅のようになりたいんだろう?」
 確かにそうだ。ほとんどの人間が、それを聞くと嘲笑う者ばかりだった。お前のような者が。それを聞く度、孔明は憤りよりも怯えが先に立つのだった。
 その気になれば、いずれ便りを出す。そう言って、その後は他愛のない話を続けた。ほとんどその内容は覚えていない。頭には、誘われたことだけが巡っていた。いや、それだけではないのか。何か、指の皮が深く剥げたような痛み、それが心の内側の皮に起こっているような気がしていた。それが何なのか、孔明には分からなかった。
 徐庶が帰って、一人部屋で考えた。
 なぜ、徐庶に励ましの一言もかけてやれなかったのか。自分の言いたいことが言えなかったからか。なぜ話してくれたとき、否定的な言葉を発してしまったのか。
 徐庶は、劉備という人の元で世に出ることになる。
 世に出て、名を売る、自分の力を試す。考えたことは何度かある。月英と一緒になる前から考えていたことだが、未だに答えは出ていなかった。
 天下に数人いるかいないかの天下人。自分は、天下人ではない。しかし、それを補佐することならできるかもしれない。自分の道に天下人を乗せるという形での補佐。
 今は、曹操。天下に最も近い男。孫子を編纂し、旗揚げから今までの戦いを見ても軍略は計り知れないものを持っている。そして何より、国の在り方を知っている。それも、自分を入れた国。新しい、国の形。
 漢王朝が腐敗しているのは確かだったが、帝位にそこまでの執着はないように見える。だが、時として民の信望を失うような非情なこともやってのけるのだ。この国で最も道を知り、作り、それを突き進む力を持った男だった。
 陣営には、人も多い。幕僚には文官、武官とも曹操自身が育てた者が名を売っている。もしそこに加わって、自分はどれだけのことができるだろうか? いや、自分の望む道に、導かれてくれるような曹操か?
「孔明様」
 月英が、部屋に入ってきた。許可を得なくとも戸は開けていい。そう言い含めてあるから、月英は構わず戸を開ける。いつ終るとも分からない考えに迷っている時、それが止めてくれる。
「月英…」
「徐庶様が、言っておられました。孔明は、誰にも負けないものを持っている。もっと自信を持て、と」
 月英の表情が、少し悲しげだった。胸に何か鋭いものを刺されたような気がした。徐庶の顔が脳裏に浮かんだ。拳を、強く握った。
「志があれば、おやりになればよろしいと、私は思いま…」
 最後まで言わせず、孔明は月英を抱き寄せた。言葉などいらない。ただ今は、その温もりが欲しかった。
 徐庶が劉備に仕官してから、一年が経った。
 一度、家督争いを見越してだろう、曹操が北から兵を引いた。荊州に攻めると見せかけたのだ。実際、曹仁という宿将に兵を持たせ攻めさせた。徐庶はかなりの大打撃を与えて撃退したという。
 よい判断ではない、と孔明には思えた。劉備は劉表の元に身を寄せる前、曹仁に敗れている。それを今度は完璧に叩いたのだ。いたずらに劉備軍に対して警戒心を持たせた、ということだ。
 曹操は、その後に矛先をすぐに再び北に向けた。案の定、袁譚と袁尚が争いを激化させたからだ。冀州の州都・?を袁紹の三男、袁尚から奪った。長男の袁譚は降伏を求めてきたというし、袁紹の甥、高幹を叩いて冀州を奪うだけで、それほどの労力は必要ないだろう。
 しかし、逃げた袁尚と次男・袁煕をどうするだろうか。二人ははるか北、万里の長城を越え、異民族の烏丸の元へと走ったという。異民族の軍は精強で、漢人のように定住しない。つまり、守る城や土地がないのだ。だから、攻めるだけ攻めてくる。
 恐らく追うだろう、そう孔明は思う。袁家の影響力を完全に絶ち、名実共に曹操軍最強を名乗るためだ。そうすれば、国の残りの半分は降伏を考える。実際に降伏をしてくる勢力もあるかもしれない。
 孫権の揚州、劉璋の益州、張魯の漢中、そしてここ劉表の荊州。涼州の韓遂・馬騰連合軍は逆に反乱の意思を濃厚にするかもしれない。あの地はここ数十年、反乱が絶えたことがない。
 情勢は、毎日変わっている。劉備軍も、除庶が入ってからも訓練に明け暮れているようだ。荊州の土着の豪族との接触や、荊州全体の空気の把握を懸命にやっているようだが、それは水面下のことだ。劉表の義理の弟である蔡瑁にでも知られれば、劉表に悪評を流し、劉備を追い出そうとするだろう。
 表面上では何も変わらない荊州は、内部での水面下の動きに凄まじいものがあった。
 まず、蔡瑁。蔡瑁の姉は劉表の妻で、この妻が産んだ子は劉jというが、この劉jを跡継ぎにするため、蔡瑁は権力争いの中核として動いていた。
 そして、曹操。北伐を終えれば、残る道は南か西しかない。もしそんなことになれば、荊州はどうするのか。降伏か、抗戦か?
 圧倒的に降伏に傾いている、ということを孔明は知っていた。孔明の元には、様々な天下の情報が入ってくるのだ。特に荊州はこと細かに知ることができる。
 荊州には、戦乱を嫌った民や、学士などが逃げてくる。劉表が把握している以上に、いま荊州には人が多くいる。その中で、司馬徽や?徳、黄承彦といった名士を中心に、文官の繋がりが出来上がっていた。それは荊州に根を張り巡らしている。荊州は、もはやそれなしには動くことがないほどで、劉表もそれを利用して荊州をまとめたのである。
 孔明の妻・月英は、黄承彦の娘であった。さらに、黄承彦の妻は、蔡瑁の姉、つまり劉表の義姉なのである。当然、孔明はあらゆる情報の中心に位置することができていた。
 荊州は、天下に手を伸ばす土台に十分なり得る肥沃の土地である。孔明は、その荊州を通して天下を見ていた。
 孔明の手は、荊州の至るところに伸びている。親しくない者とは上手く話せず、何より自分に自信もなかった。しかし、独学で学問を勉強しながらこの荊州で、それだけはやってきた。
 思いは、あるのだ。自分の力、自分の理想。それを通しての天下の安息。それを、やり遂げたい。試してみたい。天下に貫き通したい。
 しかし、実際に考えると足がすくんだ。すでに、天下の大勢は曹操に決しているのだ。それに抗うほどの才が、自分にあるのか? 何をしても、天運という大きな波に飲み込まれてしまうのではないか。
 時だけは過ぎ、その焦燥は濃くなるばかりだった。
 董卓が死に、群雄割拠の時代になった頃から、ずっと考え続けていることだった。いや、荊州に流れてくる前からか。ひたすらに、考えていることなのだ。
 しかし、引っ掛かるものが今はあった。悩み、いつも流れている考えの真ん中に、杭のように立っているもの。
 何なのかは、分かっていた。徐庶。そして、劉備。あの徐庶が仕官した劉備。
 劉備は、乱世を生き抜いてきた男だった。領土すら持たないものの、この乱世に覇を唱え、生き残っている武将といえば、劉備と曹操しかいない。孫堅も、呂布さえも死んだ。そして、最大だったはずの袁紹も先年曹操に敗れて、その後に発した病で死んだのだ。
 劉備は、完全に曹操とは敵対していた。劉備の元には、反曹操が集まる。劉備を叩き曹操に、ひいては帝に劉jの相続を認めさせる。それで、蔡瑁にとっての憂いは残らないのだ。曹操にとっても、劉備など路傍の石に過ぎない。いや、石にも満たない塵芥のようなものなのかもしれない。
 その程度の、小さな存在なのだ。大きなものに翻弄され、利用され、なんとか生きている。そんなものが、なぜこうも気になるのか。
「孔明様」
 月英に、話しかけられた。気付かなかった。
「手紙が届きました」
 畑を耕していたのだった。汗は、あまりかいていない。
「また、梁甫吟をお歌いでした」
「…そうかい? 気付かなかった」
 いつの頃から覚えているのか、意識しても思い出せない詩。いつの間にか、無意識に口にすることがあった。
「……」
 ある兵からの手紙だった。魏延という名で、最近隊長に昇格したという。劉表軍を抜け、新野の劉備軍に入るか、孔明とこのまま連絡を取り続けるか迷っている所だと書いてある。孔明のやろうとしていることの、尖兵となってくれる手はずである。
 荊州での軍事政変。
 大勢と密接なつながりを持つ必要はない。ただ中心を押すだけで、それは可能なのだ。
 劉表が荊州に来て、最初に取り込んだのが蔡氏だった。つまり、蔡瑁の一族だ。荊州では名士の一族であり、蔡氏を中心とした有力者を取り込むことによって、劉表はなんとか荊州を平定したのだ。しかし、元々土着の名士、豪族は、自らの地位と土地を守るために動く。いま蔡瑁は、劉表を利用して更に大きくなろうとしている。そのために、他の豪族と確実な溝が生まれているのだ。劉備も、それを取り込もうとしているようだが、孔明の作ってきた繋がりとは、規模が違う。劉表と蔡瑁に不満を持つ者たちを蜂起させ、荊州を取る。魏延という男とも、そのために知り合った。孔明がやりたいように荊州を動かすには、軍事面、政治面両方の後ろ盾が必要だからだ。
 荊州から、天下を取ろうというためではない。その土地を土台にすれば、孔明の考えている国の安息への道。それに繋がるからだ。
「返されますか?」
 しかし、
「いや、この人は僕の返事を必要としない人だ。今頃はもうどちらにするか決めていると思う」
 逃げていた。天下に触れていく。それが恐かった。だから、実行に移せる段階に入ったのは二年近くも前だというのに、未だに実行に移していないのだ。尖兵がいなくなるのなら、実行する力はなくなる。動く必要も、なくなる。
 荊州。いや、この国この大地にとって、自分がどれほどの存在だというのか…?

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