第二章 第二話

 曹操が、万里の長城を越えた。烏丸を討ち、袁家を根絶やしにするためである。
「揚州は動かないだろうか、月英?」
「もう先主の喪失による動揺は抑えて、以前よりもずっと固まっています。動いてもおかしくはないと思いますけれど…」
 揚州の勢力は、曹操が袁紹と決戦を始めた頃に、孫策という君主を突然失っていた。あっという間に領土を広げ、今の君主である孫権に譲って死んだのである。暗殺だったという噂だ。
「江夏を攻めるくらいはするかな」
 江夏は、揚州と荊州の、昔からの争乱の地である。お互いの州が接し合う最前線で、今は揚州に食い込む形で劉表の支配下になっていた。
「許昌を突く、ということはしないと思います」
 許昌は曹操の本拠である。孫策は、袁紹と曹操の決戦の際、許昌に攻め入ろうとした矢先に死んだのだった。
 孫権は、守りの男なのか?
 しかし、烏丸である。一つの集団、国として生きているわけではない異民族を相手の戦争だ。勝つことは難しかった。戦で勝っても離散し、また集まってきて反乱を繰り返す。手間取るのを見越して、許昌を狙うということはないのか?
「この荊州と、同じような状況ではないでしょうか?」
 降伏か、抗戦か。それを考えているのか。少しでもいい条件で降伏する。しかし抗戦になれば、あの精強な曹操軍に勝てるのか?
「江夏の黄祖は老いたから…。もう攻められれば耐える力はないだろうな」
 孫権は、何度か江夏を攻めていた。黄祖は、孫権の父、孫堅の仇でもあった。
「孔明様は、曹操が荊州に攻め入ってきたらどうなさるおつもりですか?」
「僕は兵でもないし城の民でもない。田舎の農民だから、関係ないよ」
「曹操という人は人材登用に異常なまでの執着を見せると聞きます。必ず孔明様は召抱えられます」
 月英の鋭い視線が孔明を射抜く。
「そんなわけ、ないさ。僕なんか…」
 苦笑いをしながら、目を逸らした。臥竜と司馬徽に言われたことがある。どういう意味であったのかは聞かなかったが、それでも両手放しの賞賛ではない。しかしもしそうなれば、少しは月英に贅沢な暮らしをさせてやれる。
「贅沢な暮らしは望みません」
 心を読まれたのかと思って、思わず月英を見た。
「私は、孔明様に付いて行きます。どこへでも、孔明様の行きたい所へ…」
「月英…?」
 月英が、空になった湯飲みを持って出て行った。
「僕に、未練が見えるというのか…?」
 分からなかった。ただ、月英は失いたくない伴侶だと、改めて思った。

 徐庶から手紙が来た。一度、劉備軍の軍議に参加してみないかという内容だった。
 天下の情勢と、劉備軍。曹操軍と、劉備軍。劉備という勢力が、意外に大きなものだったということがつらつらと書いてあった。徐庶にしては珍しく、文章の形式をあまり気にせず転がるような文章で書いてある。
 そこまで読んで、孔明は手と足の指先から、頭の中心へ虫が這い上がっていくような感覚を覚えた。
 劉備軍には軍師が必要だ。もっと劉備軍のあるべき姿を示す戦略が必要であり、それは自分では無理で、そういう軍師がいれば天下も見える。そんな風に締めくくってあった。
 その軍師を、自分にやれと言っているのか。
 手紙の文字が目に入らない。方寸から喉に伝わって、口から何かを吐き出してしまいそうだった。それはきっと、どす黒いものに違いなかった。
 思わず目を細めて、手紙を強く握った。徐庶を知っている。それだけで、それはやすやすと受け入れられるものではない。徐庶に才はあるのだ。自分では無理だとなぜ決め付けるのか。徐庶なら、できないことではないはずだ。なぜ、自分にできると分かるのか。勝手だと思った。手紙を送ってきたことにさえ、苛立ちを覚えた。
 しかし、歪んだ手紙を見て孔明は初めて気付いた。引っ掛かっていたことの理由。徐庶に打ち明けられた時に感じた、あの感情。
 嫉妬と、焦り。
 徐庶は親友だった。誰よりも、自分のことをよく知ってくれている。だからこそ、孔明は打ち明けようと思っていたのだ。荊州で親交を深めた高官数人にしかまだ詳しく話していないことを。荊州の、クーデターの計画を。
 それを、裏切られたと感じた疎外感。
 毎日を悩みながら、ただひたすら文字を読み田を耕す自分を置いて、徐庶は自分の身を預けるべき人を見つけたのだ。そして、世に出た。
 親友である、孔明の言いたいことにも気付かず。
 自分の道を進み、孔明の気持ちにも気付かず。
 ただ身勝手に孔明を誘った。
 それが無性に腹立たしかったのだ。そう気付いて、孔明は愕然とした。
汗に字が歪んだその手紙を、捨てるでもなく部屋の隅に放り、孔明は畑に出かけた。苛立ちをぶつけるように、ただ田に鍬の刃を立てた。
 数日後、机に折りたたんであるその手紙を見たときに、はっとした。読んだのか、月英? そんな素振りはなかった。しかし気になった。すぐに炊事場に向かう。
「月英…」
「はい、なんでしょう?」
「君は…」
 言いかけて、止めた。月英が言わない。月英が、どこまで気付いているのか分からない。徐庶へ湧いた黒い感情。どうしようもなく自分が情けなく見える感情を抱いたこと。ただ、孔明の人生の岐路だということは確実に分かっているはずだった。だから、何も言わないのだ。いつまでも付いていくと言ってくれた月英。だから、何も言わない。
 一日、考えた。自分はどうしたいのか、どうするべきなのか。あんな小さな感情を抱いてしまう自分に、なにができるのか。こうして悩むことが、月英には未練に見えているのだが、孔明はそのことに気付いてはいなかった。
 天下の情勢。曹操、孫権、劉備。そして、漢。
 民は、民である。しかし、国は国ではないはずだった。民が、国ではないのか。戦は、民を虐げる。それを終らせるための戦か。そのための、曹操か、孫権か、英雄か?
 ずっとそんなことを考えて、気付いたときには日は高く昇っていた。
 行くだけ行ってみよう。そう思った。劉備という人は見てみたい。それに、徐庶に話したかった。そして、一言謝りたい。それで帰ってくればいいだけのことだ。
「月英、樊城に行ってくるよ」
「いってらっしゃませ」
 にこやかな月英の笑顔が、痛いほどに胸打つ鼓動を少し心地良くした。
樊城までは、そこまでの距離はない。襄陽から漢水を渡ればすぐそこで、歩いての距離は百里もなかった。
 劉備軍は、最近は樊城に駐屯していることも多かった。曹操が烏丸討伐にでたとき、劉備は劉表に許昌を突くことを提案していた。かなり強く推したようだが、病で弱まっているのと、蔡瑁の強硬な態度に、劉表は結局承諾しなかったのだ。それ以降、劉備は樊城と新野を行き来する回数を増やしたのだ。物資の移動が主のようだが、恐らく北伐を終え、南下し始める曹操軍に対抗するための準備だろう。
 樊城に着いて、孔明は門の外から中を覗いた。多くは見えないが、樊城は相変わらず賑やかなのが分かった。商人も多く、何より人の顔に生気が満ちていた。皆が皆裕福というわけではないはずだが、戦火から離れているからか、それとも執政がよく行き渡っているからか。劉表はじっと荊州を固めてきた人間だから、それも理解できる。
 馬蹄音が響いて、孔明は振り返った。遠くに見える、塊。騎馬の軍団。先頭の一人。武将だろう、片手にうねった刃の矛を持つ男が、矛を振りかざす。騎馬隊が曲がった。乱れない。よく訓練されている。しかし、その男が背後の一人を振り返らずに矛の柄で叩き落した。さらにその後ろが、落とされた男を拾う。
 何の調練だ、と思った。下手をすれば死ぬところだ。
 しかし、隊の人間に動揺の色は見られなかった。
「相変わらず激しいねぇ、張飛様の訓練は」
 門から出てきた男が、連れの男に言っているのが聞こえた。
「ああ、でも模擬演習では劉備軍最強らしいぜ」
「バカ、趙雲様の騎馬隊は数が少ないんだ、当たり前だろ」
「でもよ…」
 あれが張飛か、と思った。劉備軍の武将の中でも、一番苛烈な性格をしているということは知っていた。近くで見てみたいと思ったが、その前に一人の男が話しかけてきた。
「来てくれたか、孔明」
「元直…」
 最初に元直に見つけられた。複雑な思いがかける。これからのことを思うと、足が竦んだ。このまま挨拶だけして隆中へ帰ろうか。そんな考えもよぎった。
「げ、元直、その…」
「さあ、孔明。張飛殿の訓練が終れば軍議が始まる。末席なのは我慢してくれよ」
 一言謝りたかったのに、徐庶に止められた。胸の鼓動が痛かった。
 徐庶の後ろをついて行きながら、一介の名もない若造を軍議に加える。そんなことを許す人なのか、劉備という男は。それほど人がいないのかと考えて、不謹慎だと思い直した。今は人材を求めている。そういうことなのだ。
 樊城内部に、劉備軍はいなかった。孔明が最初に来た南門と反対の、北門の外に幕舎を張って駐屯しているということだった。すぐに新野城に戻るからだということだ。
 徐庶が樊城の中を案内してくれたが、孔明の耳にはほとんど入っていなかった。樊城は、たまに来る。知らないわけではなかったのに、徐庶にそういうことを伝える頭も回らなかった。
「あの真ん中の幕舎の中だ」
 どきりとした。久々に、徐庶の声を聞いた気がした。
 兵が二人、入り口に立っていた。孔明たちの前に一人の大男が幕舎に近付くのが見えた。大男? いや、見た男。騎馬の軍団、ああ、あの先頭の男。張飛?
 背は、孔明と同じくらいか、少し高い程度だった。孔明の背は、八尺はある。群集に紛れても、目立つ高さである。しかし、その張飛という男は自分よりもずっと大きかった。何か、体全体を押されるような空気を持っている。これが、歴戦の猛将ということなのか。
 張飛が、幕舎に入る寸前に、こちらに気が付いた。孔明の足が止まった。
「おお、軍師さん。誰だ、そいつぁ?」
「張飛殿、これが劉備様に目通りをお願いした、諸葛亮でございます」
「はぁん? 青瓢箪じゃねぇか? それにそいつ、震えてやがるぜ?」
 張飛と目が合った。自分の肩が不自然に波打つのが分かった。
「緊張しているのですよ」
「ふん! 腐れ儒者だったら俺がこの手でくびり殺してやる」
「張飛殿、脅さないでやってください」
「ふん」
 張飛の虎髭が揺れて、その背が消えた。
「さぁ、行こう、孔明」
「あ…」
 足が、動かなかった。
「孔明?」
 駆け巡っていた。頭の中が、爆発しそうだった。火薬。そう、頭の中で火薬に火が点いた。
 溜息を付く徐庶の横でしばらく立ちすくんでいると、幕舎から誰かが出てきた。
「これは…」
 徐庶が丁寧に頭を下げる。
「…そちらが?」
「はい、諸葛亮でございます」
 その男は、少し頭髪に白髪が混じっていた。特徴といえば、長い耳と、腕か。ゆったりとした服を着て、その挙動は一つ一つが静かだった。
「お初にお目にかかる、劉玄徳と申す」
「あ、その…」
 名を言おうと思った。礼儀だ。最低限の礼儀だ。月英の顔が、なぜか脳裏をよぎった。
「緊張なさらずに」
 劉備が、笑って、手を差し伸べた。目が、諸葛亮を射抜いた。いや、押し包んだ、包まれた…?
「諸葛、孔明です…」
 名前を言えた。このまま死ぬまで動けないのかと思ったが、しかし言えた。不思議だった。それだけで、どこか満足してしまった。
 拝礼は、忘れていた。
 後は、徐庶に言われるままに歩き、気付いたら幕舎の中に並べられた席の末席にいた。誰とも目は合わさなかった。合わせられなかった。視界さえも、現実のものではないように思えた。
 軍議は、新野と樊城の財政のことから始まった。樊城は、完全に劉備が統治しているわけではないから、主に新野のことだった。
「新野も、樊城からも若干兵を募ることはできます。兵の兵站も、今の状態なら追いつきます」
 耳に、入る。雑音しか聞こえないようだったのに、だんだんと明瞭になる。気になった。話している人間が、気になった。
 軍議だが、人はそういなかった。鎧を着けた武官であろう人間が四人。その中には張飛も入っている。文官が、五人。その内の徐庶は、劉備の隣に座っていた。
「馬は、いい馬とは言えませんが、訓練は積んでいます。軍師殿が再編した軍も、上手く動きつつあります」
 一際大きな男が言った。関羽。名前が頭に浮かんだ。漢の帝にその長く奇麗な髭を褒められたという、美髯公。劉備といえば、関羽と張飛。それくらい有名だった。
 それから話は劉備軍の今後に移った。曹操の動向。新野で迎え撃つか、樊城で迎え撃つか。それとも、もっと他に道があるか。しかし、基本的には曹操とどう戦うか、それから離れなかった。全員が、荊州の状況と自軍の兵力を把握しているはずなのに、眼前の敵とどう戦うか、それに意見を重ねる。孔明にとっては首を傾げずにはいられなかったが、体は未だ緊張が全く解けず、上手く動かなかったので助かった。
 ただ徐庶だけは、意見を控えていた。
「徐庶、しばらく何も言っていないようだが?」
 劉備がふと思い出したように、その目を徐庶に向けた。
 徐庶が、少し考えるように俯き、ゆっくりと話し始めた。
「荊州は、いま蔡瑁によって傾きつつあります。このまま戦えば、先年の徐州のようになることは間違いない。それでも、戦われますか?」
 劉備は、一時期曹操の元に客将としていたが、反旗を翻し、徐州に拠った。しかし、あっという間に曹操に奪い返されてしまったのだ。
 徐庶の意見は、愚直なまでに率直だったが、誰かが言わねばならないことであったのだろう。誰もが、徐庶の次の言葉と、劉備の反応を窺っているように見えた。
徐庶は、しばし逡巡するように目を落としたが、すぐにその目を上げ、縋るような口調で言った。
「劉備様、やはり、荊州のことは…」
「それは言わぬ約束だぞ、徐庶」
 だが、徐庶の言葉はすぐさま打ち切られる。
 荊州を獲る、その話だろうと孔明は思った。間違いないはずだ。当面曹操に対して対抗するには、荊州を獲り、軍備を固めるしかない。
 徳の将軍。劉備はそう呼ばれてきた。曹操が財力で官位を左右すれば、劉備は軍功で受けた官位を、賄賂を嫌って叩き返す。曹操が住民を大量虐殺すれば、劉備は少数の兵力でそれを止めるために駆けつける。そうやって、天下の声望を集めて来たのだ。それは、演技であるのか、生来の性格であるのか。時にそれに助けられながらも、いまはそれに縛られているということなのか。
 その後は、やはり荊州の客将という形でどう曹操の南進に対抗するかに話は戻った。武官は戦うだけだといい、文官は劉表が死ぬ前にもう少し関係を密にしておくべきだと言った。
 孔明にとって、さほど驚くような考え方ではなかった。当たり前、というべきか。いや、驚かなかったというのは嘘だろうか。義と、直。ここまで生き抜いてきたのが不思議なくらい、ここにいる面々は真っ直ぐだった。
 しかしそれよりも、孔明にとってはこの軍議というものに新鮮味と刺激を感じていた。今この瞬間の思考は、どんな段階のものであれ、自分達が生きるために搾り出しているもの。部屋に篭り、ただ知識を盲憶していくのとは違う。生きている、智恵なのだ。
 孔明は、自分の視覚といわず聴覚といわず、遠く先々に伸びていくような感覚を覚えていた。
「徐庶」
「なんでございましょう?」
「諸葛亮どのの言葉も、聞いてみたいのだが?」
 軍議中、劉備はあまり喋らない。相槌さえも少なかった。それが、突然そんなことを言った。孔明は、自分の胸から何かが飛び出ようと必死になっているのに気付いた。全身が、熱い。
「そうだ、孔明。お前に話をしてもらう機会を逸してしまう所だった。何か、思うところがあれば話してくれないか?」
 視界が、急激に朧気になっていく。耳に入る音が、雑音になっていく。
「あ…う…」
「兄者。いかに軍師殿の勧めとはいえ、一介の若者というだけなら、ただで帰すわけには行きませんぞ?」
「ホントだぜ、大兄貴! あいつ、さっきは震えていやがったんだ」
 何かが聞こえる。殺されるのか? しかし、口が、頬が、引きつる。
「関さん、張さん、脅すのは可哀相だ」
 少し優しげな声。武官。誰?
「臥竜、諸葛亮殿の意見、私は聞いてみたいですな」
 文官の一人が言う。
「すみません、孔明はあまりこういう場には慣れておらず…」
「諸葛亮殿、荊州は? 我らは今の戦力で戦うしかないのでしょうか?」
 荊州。戦力…? 私に、聞いている? 荊州…。
「諸葛亮殿、聞かせてはいただけまいか?」
 また、あの目だ。包まれるような、劉備の目。
「荊州は…」
 言葉が、出たと思った。自分とは別物のような気がした。
「荊州は、黄巾の乱が始まる頃より戦乱とは幾らもかけ離れていました」
 出る、言葉が出る。明瞭な視界。張飛と関羽が、こちらを見ている。
「劉表が豪族の首を刎ねるなど、穏やかならざる動きもありましたが、それでも荊州は平穏な地として、動乱から逃げてきた者が多くいます。私も徐州の生まれですが、叔父に連れられ、荊州に流れてきた身です。ご存知の方も多いでしょうが、土着の荊州豪族、また名士の下に、どんどん有能な人材が学問を習いに来たり、この樊城や襄陽も、難民を受け入れながら急激に人口を増やしています」
 孔明は、自分が立ち上がっていることに気付いてはいなかった。ただ、話した。手も、言葉に合わせて拳が握られ、開かれ、流れていく。
「いま、劉表殿は病床に伏していますが、十年前までは劉表殿の執政は伸びていました。しかし、今は蔡瑁の台頭、後継者を巡る権力争いで、荊州全体には政治の芽は行き渡っていません」
「蔡瑁のやつはいつか捻り殺してやりたいぜ」
 張飛が関羽に向かって言ったが、関羽がたしなめたのが分かった。
「劉備軍があくまで荊州で曹操と戦われると言うなら、いまこの荊州の事情を利用し、戸籍調査を行い、それを元に徴兵をすることもひとつの方法だと考えられます。兵力を増やすことが蔡瑁の警戒を強めてしまうなら、荊州全体の軍備の強化という名目で行なうことも可能でしょう。今ならば、実際の荊州人口から考えて、最低限五万は補強できます。劉備軍は、その中でこの樊城、そして新野の周辺を合わせても、公に一万は増やすことができるはずです。さらにいま劉備軍が行なっている新野、樊城間の軍需品移動などの方法を使って隠蔽した兵を作れば、潜在兵力はさらに倍になるとも…」
 そこまで話して、初めて孔明は気付いた。全員が、孔明に目を向けている。誰も、一言も発さない。話すだけ話している。言いたいことが終わりに近付き、急激に孔明の眼前には現実が迫ってきていた。
 張飛が、関羽が、こちらを、見ている…。
「考え…られ…ま…」
 急に、口が痙攣したようになった。
 また鼓動が胸を激しく打つ。
 まだ足は動くか、と思った。
「差し出がましいことを、言いました…。こんな若造の話を聞いていただき、あ、ありがとうございました…!」
「あ、おい、孔明!」
 徐庶の声が背中に聞こえた。後ろは振り返らなかった。
 ただ、走った。隆中へ帰ろう。頭の中は、それでいっぱいだった。
 いつもなら、走っても隆中から樊城までそう疲れはしない。しかし、今日は違った。息が乱れ、呼吸が苦しい。
 ただそれよりも、胸の奥に何か暖かい塊のようなものがあることを、孔明は考えないようにするので必死だった…。
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