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第一章 第三話

「孔明様?」
 草庵に着くと、月英が畑の整備をしていた。二人で作った農耕機で、刈り入れをしている所だった。
「ただい、ま…」
 ほっと一息つけたようで、しかし孔明の頭は混乱したままだった。
 何も考えないようにして、自分の寝台に一直線に向かった。寝台に倒れこむと、泥のように眠った。
 再び、何も変わらない日常のはずだった。
 しかし頭にこびり付いて離れない、あの軍議の光景。たくさんの言葉、たくさんの意見、劉備の意思。それではいけない。見えていなくともいい。ただ、考え方を、動き方を変えなければ。
 変える方法を、自分の意見を、記憶の軍議で発している自分。それを想像するのは、愚かなことだった。
 二度とそんな場を得ることはないのだ。
 何度か、徐庶から書簡が来た。劉備が、孔明の言ったことに驚いていたこと。劉備がもう一度話をしたいと言っていること。
 しかし、きっぱりと断る内容で全て返事した。
 やはり、無理なのだ。自分が人の前に立つ。人の上に立つ。
 自分は、上も下もない、気楽な生活でなければ、神経がもたない。
 月英は、笑顔が多かった。孔明が自分で選んだことだから、納得したということだろう。しかし、それが心からの笑顔でないように見えるのは、気のせいなのか?
 夜、寝入る前に書物を読みながら、孔明は尋ねた。
「月英、僕に失望している?」
 燭台の火に照らされた月英の顔が、わずかに歪んだ。それは小さな笑みで、それから月英はゆっくりと首を振った。
「いいえ。孔明様は素晴らしい才をお持ちです。私は、承彦の娘ということもあり、学問をする機会に恵まれました。そして、男子にも負けない自信を持ち、私は少し傲慢になっていました」
 初めて聞くような気がした。月英の、自分の話。
「嫁ぐ先も、私より才のある方でなければ、と父にわがままも言いました」
 月英が、珍しく苦笑を浮かべている。その遠くを見つめるようだった目は、しかし笑顔を伴って孔明に向いてきた。
「そこで、孔明様に出会ったのです。私など、足下にも及ばない才を持ちながら、誰よりもお優しい心をお持ちでした。戦乱に苦しむ民の心を思い、自分の才を何とか苦しむ民のために使いたい。それが、私には痛いほど伝わってまいりました」
「……」
 自分に優しい心があるなどと、思ったことはない。
出会ったばかりの頃の自分と月英。あの頃から、月英には包まれるような優しさを感じていた。本当に優しいのは、月英だと思った。自分には、醜い感情ばかりを生まれさせる、弱い心しかない。
「しかし、いくら才があっても、孔明様の心がその重責に押し潰されてしまうというなら、私には無理強いをすることは出来ません。ただ私は、あなたと共に生きていくことだけを願っています」
 月英の言葉に、孔明は自分の心の中を、かつての自分を回顧する。
 学問は、好きだった。新しいこと、それを知ることが楽しかった。月英に会った頃はまだ、学問を知ればたくさんの人と、そしてたくさんの天の心を知ることが出来る。そう思っていた。
 しかし、今はどうか。
 その知識が、何の役に立っているのか。村人の困っていることに、智恵を貸す。大きな岩をどかす道具を作る。都で商人をやろうという若者に助言をする。そういうことはできた。しかし、それだけだ。自分の身近な存在を少し手助けしている、それだけだ。クーデターのことでも、結局は机上の空論に終っている。
 戦乱から、逃れてここにやってきた。叔父は、その戦乱の中で死んだ。兄も家計のために、呉に行って孫権の臣下になったという。しかし自分は? この戦乱に、何かできるのではないか。田を耕して生きるだけなら、学問に何の意味があったというのか。それを、ここ数年のうちに忘れてはいなかったか。
 月英がじっと孔明の目を見据えていた。
 まだ、自分に迷いがあるのか。
 しかし、あの全身が痙攣するような苦痛は嫌だった。
 結局、自分程度の力では天下にとって何の助けにもならないのではないか。
 ふと、劉備の笑顔を思い出した。あの人は、自分の力に疑問を抱かないのだろうか。ただ、抗っているのか。辺境の異民族のように、叛乱を糧に生きているのか。結局、ただの骸となって名前さえ残らない。いや、馬鹿な男がいたと、汚名だけは残るかもしれない。それを分かって、戦い続けているのか。
 分からなかった。ただ今は、曹操が早く天下を平定すればと思う。それは、自分の考えとは大きく逸れることになる。自分はそのために、こうして悩まずにいられなくなるのか。自分のやってきたこと、見てきたもの、全てが報われるのか。心に平定が訪れるのか。
 考えても考えても、答えは見つからなかった。荊州に流れてくる前から考え続けてきたこと、それに容易に答えが出るはずもない。ただ、その問いを追いたて、波を与えるものがある。それは確かだった。


 軍議に参加してから、半年も過ぎたろうか。
 驚くようなことが起きた。
 劉備が訪ねて来たのだ。たまたま孔明は家の中にいて、馬の音を聞いて気付いたのだ。目の前が真っ暗になった。しかし、胸の鼓動と共に何か沸き起こるものにも、気付いていた。
 急いで月英に伝えた。孔明はいま外出している。そう、伝えてくれと。
 関羽と張飛が供をしているようだった。部屋の隅に足を抱えて、じっと座って待った。遠くに、張飛の怒号が聞こえる。その度に、耳を抑えた。
 早く帰らないだろうか、早く帰ってくれ…。
「お帰りになられました」
 部屋に入ってきた月英が言うと、全身の緊張が一気に解けた。縋るものを探すかのように、地面を手が暫く這った。
 月英が気をきかせて数日は戻らないと伝えたのに、かなりの時間を劉備は待っていた。家の前でだ。震えていた若造に、なぜそこまでするのか。向こうは、名は天下に知られている大将だ。三人が帰ってからしばらく、孔明は狐にでも化かされたのではないかと思っていた。
「よろしかったのですか?」
「失礼は重々承知だよ…。でも、ああすることしか思いつかなかった」
 月英の手を握った。自分の手の震えを止める方法を、孔明はそれ以外に思いつかなかった。
 翌日から、家の中でも畑仕事をしているときでも、孔明は襄陽に繋がる道をちらちらと気にしていた。劉備の来た道だ。気になって仕方がなかった。しかも、これは怯えではない。
 考えたくはないが、これは期待だった。期待している、劉備が来るのを。否定し切れない熱い鼓動が、胸を駆けていた。
 二度目の訪問は、空が寒々とし始めた頃だった。
 孔明は、曹操が完全に烏丸と敵対し、それを打ち破って袁家の生き残りを追い詰めているという書簡に目を通していた。曹操とその配下の政治には隙がない。予想より早く、北をまとめて帰ってくるだろう。
 馬蹄音が響き、どきりとした。三頭はいる。あの三人か。
 どうしようか、しばし考えた。また無下に追い返すのか。それとも、話だけ聞いて帰ってもらおうか。迷っていると、月英がやってきた。
「劉備様がこられました」
 壁が、目の前にある、そんな感覚を覚えた。踏み出せない。
「いるかどうか分からない、とは伝えておきました」
 家の主が不在かどうかを知らないわけがない。だが月英のことだ。相手に踏み込まれるような言い方はしていないだろう。
「体調を崩し寝ている、と伝えてくれないだろうか…」
 なんという稚拙な、と自分でも思う。しかし、壁がある。それは、いかんともしがたい、越えられない壁なのだ。自分が作っているのか、劉備が作っているのか、それとも天が…?
「かしこまりました」
 月英が行く。
 また無下に帰してしまった。胸を締め付けられるように感じ、その場にうずくまった。会って、断ればいい。自分の意志を、伝えればいい。しかし、足は動かない。仕方がないのだ。また、書簡でも読んで気を紛らわせばいい。そう思って、湯のみに手を伸ばした。
「孔明殿!」
 声が、聞こえた。その拍子に、湯のみを取り落とした。劉備の声だと、すぐに分かった。まだ帰っていなかったのか。  よく通る声だった。幾多の戦場で、兵を指揮してきた声。
「私は、乱世に抗ってきた!」
 軍議では口数少なかった劉備が、大声で自分に語りかけている。
「いたずらに兵を死なせ、民に未来の保障されていない希望を与えてきた!」
 止めてくれ、そう叫びたい衝動に駆られた。関羽の制止する声が聞こえたが、劉備は止めない。
「しかしそれも全ては、私を慕って戦ってきてくれた仲間と自分自身、そして天下の民のためなのだ! 今まで見てきた、流させてきた血を、無駄にはしたくない! 頼む、諸葛亮殿! 力を、力を貸してはくれぬか!?」
 静寂。劉備の声が止まるとともに、まるで永劫に音が消えるのではないかと思えた。
「諸葛亮殿!!」
 いつの間にか耳を抑えていることに気付いた。そして本当に抑えなければならないのは、自分の方寸の中に沸き起こる、炎のような打ち消し難いうずめき。
 劉備の声が止んだあと、何かが聞こえた。自分の、呻き声だと気付くには、時間がかかった。
 それから馬蹄音が聞こえるまで、どれだけの時間があったろうか。半刻か、或いは半日か。
 長かった。耐え難い時間だった。
「お帰りになられました」
 月英が、呪縛を解いてくれた。目も合わさず月英を寝台に引き倒し、ただがむしゃらに抱いた。頭には、劉備の声が何度も何度も繰り返されていた…。


 久々に、馬に乗った。村の長が、いつでも使っていいと言ってくれた馬。荊州に立ち寄った知り合いの馬商人から買い取った駿馬だった。孔明の農耕機を売った金で買ったのだと言っていた。名は、佐洸。孔明が付けた名だ。
 大地を、見たくなった。天下を見渡してみたい。いつの間にか、厩の前に立っていたのだ。
 馬は、幼い頃からよく乗っていたので、馴れたものだった。兄は謹というが、自分はいつも歩き、孔明には馬に乗せてくれた。
 襄陽とへ行く道とは少しそれ、漢水に向かった。漢水は、長江と下流で合流し、対岸が見えないほどの大きな河となって、その先は海につながっているという。海は、見たことはあるかも知れないが、少なくとも覚えてはいない。
 見足りない、と思った。何かが足りない。もっと遠くまで行けば満たされるのか。もっと速く走れば満たされるのか。
 漢水の流れを眺めながら、そんなことを漠然と考えた。漢水は、答えを教えてはくれなかった。
 家に帰ると、手入れもせず、刃がぼろぼろの剣を振ってみた。なぜそうしようと思ったのかは分からない。ただ、目に付いたのだ。
 我流なので、ただ振っているというだけのことだが、別に人を殺す鍛錬をするわけではない。体が引き締まる、頭がすっきりする。あくまで気持ちの問題だが、汗を流すのは気持ちがよかった。
 季節はもう春になり、もうじき方々に奇麗な花が咲く時期だった。
 家に入って、書物を読む。しかし、しばらくすると窓から外を見る。癖になっているようだった。来るはずがない。
 曹操は、すぐにでも北伐を終える勢いだった。劉備は、単独でも少しでも曹操に圧力をかけようとするだろう。それに、劉表が病に遂に倒れたという。蔡瑁の劉備への圧力も増すはずだ。来れるはずがない。
 だが、期待しているのだ、自分は。それは、孔明の中の何かが訴えかけているようだった。表出しようとする何か。自分の志なのか。それが、外と天下と自分を繋げたがっているのか。
 ふと、家のそばに立つ木が、わずかに花を咲かせているのが見えた。外に出て眺めてみよう。そう思って、腰を上げた。
「孔明様?」
 月英が不思議そうに言う。急に何も言わず外へ出ようとしていることを疑問に思ったのだろう。特に声をかけることなく、月英を横目に外へ出る。
 木の前に立ってみた。まだ蕾が多い中、小さな輪を開かせている薄い紅色。しかし、なんでもない花だ。何年も見ている花。どうして、急に見てみようと思ったのか。自分でも、よく分からなかった。
 人が近付いてきた気配がした。じゃり、という土を踏む音がやけに耳に響いた。
 月英が不思議そうに言った理由が分かった。月英は、馬蹄音に気付いていたのだ。
 孔明は、気付かなかった。ただ毎年当たり前のように咲く花を、間近で見てみようと思って外に出ただけなのだ。
 風が小さな花を揺らした。手をかざし、風を防ぐ。その風に、わずかに目を細める。
 振り返るとそこに、劉備が立っていた。

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