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第一章 第四話

 しばし、劉備と視線を交わした。
「劉備…様」
「諸葛亮殿。やっと会えた」
 言い訳は、できない。体の震えはなかった。だが、憎かった。動かない体が憎かった。足が憎かった。
「諸葛亮殿、話をさせていただきたいのだが、よろしいかな?」
 まただ。また、劉備の笑顔が足を動かす。
「ど、どうぞ…。何のおもてなし、も、できませんが…」
 月英が挨拶をして、劉備と自分を客間に通してくれた。
「奥方ですか?」
「え、ええ…。その、良い、妻です」
 何を言っているのだ、と心の中で汗を掻いた。体が熱かった。顔を俯かせた。劉備の目を見ると、顔が朱に染まりそうだった。
 しばらく、二人とも喋らなかった。
 湯を運んできた月英が、拝礼をして下がろうとした。そこに、声がかかる。
「孔明殿が、良い妻と仰られた」
「私には、孔明様はもったいない夫です」
「失礼だがお名前は?」
「黄蓉と申します」
 それだけ言って、月英は下がった。
 また、沈黙が流れた。
「いま…」
 劉備が喋った。孔明の肩が、びくりと波打つ。
「天下は、曹操に大勢は決しようとしています」
 顔を上げて、劉備の目を見た。何かが見えた、そんな気がした。それは、自分の方寸に灯っている炎のようなものに似ていると感じた。すぐに、違うと心の中で打消しはした。
「漢王朝は、衰退の一途を辿っています。曹操は平原を平定しました。しかしそれでもなお、民の不安は消えないのです。戦乱の乱世ではなく、民の心の乱世が、終息しないのです」
 漢王朝。劉備は、漢王朝復興の大義を明らかにし、ここまで戦ってきた。それゆえに得た賛同者も多くいるだろう。しかしどこまでだ、と思った。
「私は、民に安息を与えてやりたい。だから私は、敵わないまでも、曹操に抵抗して来ました。その志を分かってくれる、たくさんの仲間もできた。しかし、足りないのです!」
 劉備の声が大きくなって、思わず孔明は萎縮した。
「力が…、智が…、曹操に対するためには、圧倒的に足らないのです! だから、私はいまたくさんの人を必要としている。今よりもっと、もっと大勢の人を…」
 劉備が、孔明に一歩にじり寄る。
「諸葛亮殿、あなたは荊州の名士、司馬徽先生に臥竜と称されたという。それだけの才がありながら、なぜこんな所で鬱々と過ごされているのか、私には分からない」
 鬱々、という言葉に、孔明は苛立ちを覚えた。なぜ、そんなことが分かるのか。
 この諸葛孔明という人間は、それが幸せだと感じる者かもしれないのに!
「以前、あなたは私の軍議に参加してくれました。その時、私はあなたの言うことに驚いた。そんなことを言う人間は私の仲間にはいなかった」
 配下ではなく、仲間なのか。
「そして何より、まるで怯えていたように見えていたあなたが、みるみる内に自信に満ちた話し方をした。それにこそ私は驚いた。感動したといってもいい」
「僕には、何の才も、ありません…」
 やっと言葉が出た、と思った。好き勝手に話されている。それは暴力に等しい、という屁理屈を頭が勝手に考えていた。
「あなたは、自分がどんな目をしているか、知っていますか?」
「目…?」
 急に劉備が話題を変え、何が言いたいのか分からなくなった。
 ふと、この目の前にいる男は誰だろう、と思った。いや、劉備なのだ。劉玄徳。しかし、自分と話をするような人間であるのか。自分のことを話すような間柄であるのか。
 元直が相手なら不思議でもない。月英が相手でも違和感はないだろう。しかし目の前の男は。自分の、なにを知っているというのか?
「すみません、私がずっと勝手に話しています。しかし、もうしばらく聞いていただきたい」
 劉備の目が、射抜いてくる。抗い難い力。しかし、安心感。
「私は、世を憂い、わずかな有志を募り、この乱世に旗揚げしました。それまでは、田舎で筵を織っていた。貧乏な暮らしで、母に言われて学びに行った学問もものにならず、ただ鬱々と日々を過ごしていました。あなたの年よりもう少し若い頃です」
 また鬱々だ、と思った。
「貧乏な生活で、あまり治安もよくない故郷で、だからこそ私は民の辛い暮らしも分かっていた。それよりももっと苦しい生活を強いられている地域もあった。それを、救ってやりたい。それが天下と繋がっているということに気付いたのは、いつの頃だったのか」
「…」
 何かを言おうと思ったが、止めた。もうしばらく、話を聞こうと思った。
「しかし、どうすればいいか分からなかった。どうしようとしても、自分にそんな大それたことが出来るのかも分からなかった。命は惜しくない。しかし、命を投げ打って走り続けたとしても、乱世にあっという間に飲み込まれてしまうのではないか。そう思っていました。ただ、それでも民の平穏という天下への思いは打ち消えなかった。諦めることも、できなかった」
 劉備が、誰に言っているのか分からなかった。自分自身に言っているのではないかと思えた。しかし、違う。劉備は、こちらに向かって話している。
 ただ、自分の心が移ろい揺れて、劉備の方に寄りかかっている。だからそう思うのだと気付いた。
 劉備の目には、変わらぬ光が宿っている。触れば熱いだろうか、そんなことも頭に浮かぶ。
「その悩んで悩み続けていた私のその頃の目、あなたは、きっとそれと同じ目をしている」
 同じ、目。呼吸が苦しい。まさか。そんなはずはない。立場が違う。生きてきた環境も違う。
 分かっていた。
 そうだろう。同じ目を、しているのだろう。鬱々としている、それも確かだ。痛いほど、月英が教えてくれていた。
「しかし、僕は…」
「諸葛亮殿、あなたは今の天下をどう思っています? この国を、民を、政治を…。すみません、あまり多く話すことがないのですが、ついつい話し出すと止まらない」
 劉備が、湯を飲んだ。一気に半分は喉に入れた。
「その、僕は…」
 言おうとすると、頭が混乱してくる。なぜこんな性質なのか、自分が恨めしかった。言いたいことはあるのだ。しかし、口に出す前に糸が絡んだようになって、どこが端でどこから出せば良いのか分からなくなる。
「どうぞ、ごゆっくりと。私は、待ちます。あなたの言葉を」
 思いも、と劉備が付け加えた。にこりと、劉備が笑った。引き込まれるような笑みに、孔明の体が少し前にのめった。
「その、この国は、漢王朝が…、ずっと、続いてきました…」
 なんとか、話せるか。そう思った。少しずつでも、話せればそれで良いと思う。そう思わせてくれる、人なのだ。
 漢王朝、国、天下、民。漢王朝は、歴史。国、自分が考えている、国のありよう?
「漢王朝は、民草の心の底に根付いている流れです。王朝が与えた流れのはずが、時と共に民がその流れを骨子として世に生まれ出でるようになる。それが、伝統というものです。漢王朝は、民の拠り所なのです」
 孔明は、劉備の目から視線を外すことがなくなっていた。自分が話していること、それを意識しなくなっていた。
「しかし、民の拠り所であるはずの漢が衰退し、その力を失ってきた。だから、新たな拠り所が必要になってくる。漢衰退の大きな原因となった黄巾の乱。無意識に、しかし必然と、それは起こるべくして起きたのです」
 劉備が、拳を握ったのが分かった。しかし、自分もいつの間にか握っているのは、気付いていなかった。
「劉備様、あなたは本当に、漢王朝を復興なさろうというのですか?」
「正直に言おう。劉の姓を持っている。それは、何もない私が持つ、唯一の武器だった。しかし、漢王朝は再興したいのは確かだ。孔明殿の言葉で改めて思ったが、すでに民草に流れているもの。それを元に戻し、さらに強固なものにする。それは、更なる治世の歴史を生むはずだ」
「形骸の漢王朝を利用する。それは、劉備様の手です。あくまでも手段、そうですね? そういう形での、劉備様の天下。それを、望まれるのですか?」
「そうだ」
 劉備が、もう一歩にじり寄ってきた。構わない。
「しかし、平原は曹操のものになった。それだけで、天下は曹操のものと言って過言ではない。曹操に対抗する力を、もはや蓄える方法があるとは思えないのだ」
「漢が始まる前より、天下は広くなりました。決して平原だけが天下とは言えません」
 話している。そう思った。劉備にか。いや、自分に。自分の、志。それを、問い質している。
「揚州、荊州、益州、曹操はこれからそれらの制圧に乗り出すでしょう。そして、それは容易いはずです。揚州は分かりませんが、荊州、益州は間違いなく曹操に降伏する道を選ぶでしょう」
「それでは、私には破滅の道しか残っていないのか。このまま、曹操に飲み込まれるのか」
 劉備の拳が震えていた。目の炎が揺れている。瞳の中で光が反射しているように見えた。涙、それが反射させているようだ。一筋、流れたのが分かった。
「方法は、あります」
「それは…!?」
 劉備の膝が、孔明の膝に触れそうになる。
「その前に一つ、お聞きしたい。劉備様は、誰よりも曹操の強大さを分かっておいでだと思います。なぜ、曹操の元で働こうとなされないのです? 曹操の天下統一、そういう形でも、民に幸せはやってくるのではないですか?」
 劉備が、少し考えるように俯いた。
「確かに、私は曹操の強さは知っているつもりだ。曹操の元で。そう考えたこともないわけではない」
 劉備の涙は、乾いていた。
「しかし、何か漠然としたものが、私の中にある。私に、天を戴く才があるとは思わない。しかし、曹操に抗わなければ、なにか民に苦しみを与える未来しか想像できないのだ」
 馬騰や韓遂といった漢の叛乱分子は、似たようなことを言うのではないか。いや、まだ劉備が話す。今は聞こう。
「いや、違う。曹操の戦乱には、終わりがない気がしているのかもしれない、私は。それに抗うのではなく、止める。それが、覇を唱える曹操を知る、私のやるべきことなのではないか。いや、すまない。漠然としていて、言葉に表すことが難しい」
 劉備が、言葉に窮しているのが分かった。しかし孔明は、予想外の言葉に驚いていた。
 それでは、自分と同じではないか。この男の漠然たる思いは、まさしく自分の戦略構想につながってくる。それを、ずっと思い続けてきた男だというのか?
 相槌も何も入れなかった。孔明は、返事ではなくただ、
「天下、三分」
 そう言った。いや、半分だ。そして半分で話す。半分は、自分で問う。
 曹操は、英雄か? 劉備が、英雄か?
「天下、三分…?」
 曹操は全土を支配するのか。民は曹操を畏怖している。その力と、かつてない果断さに。
 劉備の表情が、歪んだ。子供のように、表情を変えられる人なのだと思った。
 曹操の天下取りには、曹操自身が濃く現れすぎてはいないか。曹操は、民のことを考えているだろう。しかし、引っ張り上げようとしてはいないか。
「曹操に対抗するには、もはやそれしか道はありません。揚州は、安定しています。それでも、兵力では曹操に圧倒的に劣ります。しかし、荊州、益州を取り、そこを地盤に領土を固める」
 荊州クーデターは、孔明が自身で天下をとるために考えたことではない。この戦略のために、始まりとして考えたことなのだ。軍備を固め、安定した荊州を第三者、いや、孫権でもいい。やすやすと曹操に敗れない誰かに引き渡し、その引き渡した相手を主として、道を示す。クーデターこそ実行には移さなかったが、その道をいま示しているのは目の前にいる男。孔明の目を、昔の自分と同じ目をしていると言った男。
 劉備が、食い入るように孔明を見ている。孔明の手が、益州の方角を指す。意識しては、いない。
 曹操の国で、民は付いて行けるのか。いや、全ての民がそんなことができるはずはない。民を選ぶ国。それが待っているのではないか。
「揚州とは同盟をし、荊州、益州を併せた劉備軍が、平原に睨みを利かせます。荊州からは許昌を、益州からは長安を」
 ならば、天下統一は避ければいい。戦乱は、民を苦しめる。
「曹操が攻めてくれば二つの勢力の力で事に当たり、揚州も入れた三方向から中原へ攻め入ります。曹操は、国境全土に兵を回さねばならず、反乱鎮圧のための兵を割けば、中原に足を踏み入れる機会は必ず出てきます」
 しかし、勢力が三つあれば。情勢は、均衡状態になる。簡単には他国へ攻め入れない。第三の勢力が、漁夫の利を狙っているからだ。
「まず中原に入り、曹操を討ちます。揚州の孫権とその領土を分割した後には、天下統一は目の前となるのです」
 劉備が、熱っぽい目をして、力強く頷いている。
 中原に攻め入る必要は、ない。ただ、均衡すれば良いのだ。いずれ、真の英雄が生まれ全土を統一するだろう。いや、英雄でなくともよい。凡庸でも良いのだ。ただ、曹操のように苛烈でなく、民を思い、良臣に耳を傾ける君主。それが現れれば、この国は民と共に生きていけるだろう。
 だが、目の前の男。少し、思いが巡る。
 この男は、どうだろうか? 一介の若者の前で涙した、名ばかりの将軍。もしかしたら、それが出来るのではないだろうか?
 漠然たる思いに、答えはない。しかし、それはいずれ分かっていくことだろう。この男の、傍にいれば。
 はっとした。
 自分は、もう決心していたというのか。
「諸葛亮殿…!」
 劉備がさらに一歩前に出て、孔明の手を握った。湯飲みが、音を立てて落ちた。
「私に、私に力を貸してくださらんか? 私にはあなたが必要なのだと、痛いほど感じている。初めて会った時から、今は狂いそうなほどその思いが胸を熱くしている…。頼む、諸葛亮殿…!」
 戦。自分の指示で死んでいく兵たち。血。叫び声と、刃の弾け合う音。自分自身に襲い掛かる凶刃。五体が奪われるか、それとも命か。脳裏に浮かぶ。自分に、やりきれるのか。果てしない覇業の補佐。
 自分に、そんな力が本当にあるのか。それを思うと、足が竦んだ。またか、と情けなくなった。しかし、涙。劉備の涙が見えていた。なぜか、劉備の姿が歪んでいた。自分も涙していると、気付いた。
「三度も…」
 孔明は、ぺたりと座り込んでいた。力が入らない。足が自分に付いているのかどうかも意識できなかった。
「お、訪れていただいたことに、応えないわけには、参りませ、ん…」
 徐庶と共に働ける、それがまず頭に浮かんだ。楽しみだった。しかし、張飛と関羽の姿を思い出すと、やはり足が竦んだ。しかしこれからは、付き合っていかなくてはならないのだ。

 臥竜と称された諸葛孔明。建安十二年(二0七年)、三顧の礼により世に出る。
 草庵にはもう、戻ることはなかった―――。
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