×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

第二章 第一話

 歩くことが好きな人だった。
 道は綺麗な道でも獣道でも関係ない。ただ、歩くのが好きなのだ。考えがまとめられるのだと、言っていたことがある。
『私は君のように閃きの強い人間ではないから』
 いくつも考える。いくつもいくつも考えて、それらを繋ぎ合わせ、削ぎ落とし、ようやく道筋が見えてくる。そのたくさんの考えが絡まってどうしようもなくなった時、歩くのだと。歩いていると、歩くことに気がいって、考えることに対する力が抜ける。それで、余計なものが剥がれ落ちていくのだと。
「士元、時が来たんだ」
「君がそう言うなら、間違いはないと思うな。君の洞察力は、はるかに私を凌駕している」
 目の前にいる龐統士元の口から出る言葉は、聞く者には甘美な響きとして耳に残る。
師である水鏡先生は、彼を褒め上手と揶揄するように言っていた。十人褒めれば五人は延びる。そんな中途半端なやり方を責めるような言い方で。
 でも、孔明は彼のことが素直に好きだった。元直や、公威と同じように、親友だと思う。
「先日曹操軍が南下した際に、博望破に夏侯惇将軍を打ち破ったのは、君かい?」
「え、と…」
 元直だ、と思った。劉備様に進言して、実戦を指揮したのが元直なのだから、元直だ。
「正直に言うといい。それとも私には言えない?」
 瞼が厚く、目は細いが、その目が孔明の目を射抜いてくる。細く何でも貫くような目だ、と思う。
「そ、そんなことはないよ。…僕も一緒に立てた、作戦だった」
「そうか。遂に伏竜が立ったか。君が力を試す場に選んだ劉備玄徳…。早く会ってみたいものだよ」
 にこりと笑う士元。顔が醜悪なことでよく誤解されてしまうが、そんな外見とは裏腹に、ずっと優しく心強い。
「まさかお前さんに呼び出される日が来るとはのう」
 声の上がった方に、孔明と龐統が振り返る。そこには、数人の男たち。からかうように声をかけてきたのは、龐統の叔父である龐徳。
「久しぶりだなぁ、孔明」
 月英の父である、黄承彦。そして。
「伏せた竜は何の役にも立たぬ。だが、立てばまた吐息が周りを傷付ける」
 水鏡先生と呼ばれる、司馬徽。
「相変わらずの厳しいお言葉」
 司馬徽の言葉に顔を歪めた孔明に、答えた龐統が笑いかけてくる。
「お主も、相変わらずぬるい言葉ばかり吐いておるようじゃな、龐統」
 龐統が苦笑し、肩を竦めてみせる。
 司馬徽の言葉に胸を抉られるような感覚を覚えていた孔明は、しかしその龐統の挙動に救われる。同じように苦笑を浮かべ、龐統と目をかわす。
 元直と共に働けるようになった。優しい目をした目の前の親友とも、きっとこれから一緒に働ける。
 その期待を胸に秘め、孔明は名だたる名士たちを前に、竜の吐息を漏らす決意を強めたのだった。


「先日の夏侯惇軍撃破は見事だった、軍師殿」
 孔明が徐庶の館を訪れていたとき、劉備が偶然やってきた。
「いえ、私だけで立てた作戦ではありません」
 ちらり、と徐庶が孔明を見る。劉備もそれに合わせて見てきたが、すぐに視線を徐庶に戻した。孔明は、苦い顔を俯かせていた。
「さすがだ、と張飛も関羽も喝采していたぞ」
「劉表様の所へ?」
「うむ。呼び出されてな。恐らく、曹操の南下に対することではないかと思うが」
「私もご一緒しましょうか?」
「いや、私と側近だけで、と言われている」
「あまり無茶な注文はお引き受けなさらぬよう」
 徐庶が軽く笑いながら言った。
「手厳しいな、軍師殿。分かっているとも。いや、別段用があったわけではないのだが、このところ落ち着かないものでな。劉表殿の所へ赴く前に、軍師殿の顔が見たくなったのだ」
 劉備が立ち上がり、徐庶と孔明は外まで出てそれを見送った。孔明は、一度も劉備と目を合わせることができなかった。
「劉備様もやはり不安なのだろうな。いや、劉備様だからこそ、曹操の迫りくる恐ろしさが分かるということか」
「そう、なのかな…」
 曹操軍が南下した際には、劉備軍は盾となって戦うことになる。その先にあるものが死か新たな道かは、例え対策を立てたところで誰にも分からなかった。
「孔明、お前は仕事の方はどうなんだ?」
「順調だよ。樊城の方もほぼ完成したし」
 孔明は、今は糜竺という文官の下で財務整理などをしていた。初めて孔明が劉備に会ったときに進言した戸籍調査を行って、徴兵に耐えうる人材の把握などもやっている。孔明が劉備軍に参入してから今までで、劉備軍の兵はぐっと増えた。
「士元に会ったらしいじゃないか?」
「どうして知ってるの?」
「黄夫人に聞いたよ」
 そういえば、月英が城内の市場で会ったと言っていたことを孔明は思い出した。
「たまに襄陽にいることは聞くんだが、会う機会もないな、なかなか」
「士元も忙しいみたいだったよ」
「そうか」
 徐庶が、自分の掌を覗いた。昔のことを思い出しているのだろう。
「さて、これからの劉備軍だが…、どうする?」
 孔明は頷き、頭の中で状況を整理する。
 曹操は平原を完全に制覇し、玄武池で水軍の調練をしているという。北の次は南。その意思表示に違いなかった。それは、孫権の揚州、そしてここ劉表の荊州を震撼させていた。
「曹操の南下は止められない。劉表殿は病に弱っているというけど、もし曹操軍の南下に対して戦えと言われれば、この樊城で防ぎ止めるしかない」
 荊州には兵力だけで考えれば対抗できなくはないが、実戦経験が無いに等しい。曹操軍を相手に、どれだけ戦えるかは疑問だった。
「でも、劉表様の病は篤い。劉表様がいなくなると蔡瑁が実権を握り…」
「降伏、か」
 そうなると、荊州全体が曹操の支配下に置かれ、劉備軍は孤立する。間違いなく劉備軍に残された道は、
「孫権との連合、か」
 徐庶の言葉に、孔明は力強く頷いた。
「樊城で戦うことになっても、降伏になっても、それは必要になってくる。劉備様が荊州を取ろうとなされば、荊州の兵力を有効活用できるんだけど…」
「あの方に人が付いていこうとするのは、忠義の道を知り、それを実践するからだ。世話になった劉表殿を裏切って荊州を取るなど、微塵も思われはしないだろう」
「でも、荊州が降伏した際には、それには従わない」
「曹操との衝突になるな」
「でも独力で対抗できるわけはないから、孫権の所へ行かなければならない」
「最初から目的地のある逃亡ということになるのか?」
「そうだね」
 孔明が頷くと、徐庶は首を振った。
「聞けば、納得はいく。考えられることではある。でもお前は、それをずっと以前から考えている。考え尽くして、さらにこれから発展させていくんだろう」
「…?」
 徐庶の言いたいことが、孔明には分からなかった。
「なぜそれを劉備様に自分の口から言わない?」
「え、そ、それは…」
「お前があがり性な事は知っている。大勢の前で話すのが苦手なことも知っている。なら、劉備様に直接言えばいい。私が場を作ってやるし、近くにいてやってもいい。なぜそれを拒む?」
 人前で話すのは怖い。大勢の前で話すのは足がすくむ。しかしそれより怖いのは、自分の心底からの考えを他人に話すこと。
 他人に否定されたら? それが間違っていたら?
 なにより、自分の言おうとしていることは、大勢の人間の命を左右するのだ。もし自分が誤れば、それらの命は消し炭に風を吹きつけるように吹き飛んでしまうだろう。
「どんなに人の上を行く作戦を立てても、人に伝えられなければ意味がない」
 少し強い口調で言う徐庶の顔は、孔明に少なからずの恐怖を与える。寄りかかっているものが消え去る信号のように、失うことへの恐ろしさが胸の内から杭を打ちつけるように孔明を揺さぶる。
 そしてその怯えは、逃げている自分を肯定するものでもあるということに、孔明は気付いた。頼っているのではない、縋っているだけなのだ。何も与えず、ただ利用している。都合のいい存在だと、自分は心のどこかで思っているのではないのか。
「どうする、私がもしいなくなるようなことがあったら」
 その言葉に、弾かれるように孔明は顔を上げた。寸前まで考えていた、黒い影に追われ引かれるような思いは消し飛んでいた。
 徐庶がいなくなる! 考えられなかった。一緒にやっていくのだ。元直とは、親友であり、いつかはお互いに頼れる同僚になるはずなのだ。一緒に、劉備様を押し上げて、自分たちの力を証明していく。あのときの嫉妬という汚い感情も、それで洗われるはずなのだ。
「そんな…!」
「戦場だ、何が起こるか分からん。もちろん私ではなく、お前を失うことだってあり得る。ただ、私はいなくてもお前がいれば劉備様は大きくなれる。私はそう思っている」
「元直…。元直、そんなことを言っては駄目だ!」
 自分でも驚くくらいの大声が出た。徐庶も、驚いたようだ。
「お前が私のことを思って言ってくれたのは分かる。しかし、いつまでも頼ってもらっても困る。そういうことだ。お前が自分の力を過小評価しなくなれば、私は初めてお前を頼れる。孔明、お前はもっと大きくなれるはずだ。いろんな意味で、な」
 俯いた。元直に甘えている。そうだろう。しかし、怖いのだ。元直を失うのが怖い。戦場で指揮をするのも怖い。戦場に立つのも怖い…。
「まあ孔明、私もそうやすやすと退くつもりはない。お前もゆっくり大きくなればいい。だがそのためには、劉備軍という舞台が必要だ」
 徐庶のその言葉に、少し心の揺れは収まった。そうだ、いなくなるわけはない。一緒に天下を約束したのだ。
 顔に、笑みを浮かべた。徐庶を安心させようと思ってやったのだが、あるかなきかの笑みにしかならなかった。大切な存在だと、痛切に感じた。ここまで自分が動揺するとも思わなかった。
 だからこそ、ずっと甘えてはいられない。そう思う。強くなろう。今すぐでなくてもいい、強く、徐庶に頼られる存在に…。


「周瑜という人物は、孫権軍の中枢だね」
 樊城の中に与えられた館で、孔明は月英の報告を受けていた。
 二人で住むには、少し広い館だった。この館に住むのはそう長くないだろうということもあり、下男下女も雇っていない。
「はい、軍事では最高権力者ですが、それとはまた違う孫権軍の中での大きさというのがあるようです」
 月英が仕入れてくる情報は荊州のものがほとんどだが、それ以外のものもある。文人のつながりというのは国や国境というものはあまり関係ないのだ。
「周公謹、か…」
 中原ではどこまでか分からないが、江南では周瑜の名前は有名だ。最強と呼ばれる水軍を率いる男は、孫権の前の君主、孫策時代から参謀として活躍し、孫権の兄のような存在であるらしい。
 つまり、周瑜の考えが孫権軍を動かす、といっても過言ではないのだ。
(瞬く間の江東制覇、異民族の鎮撫…。どれをとっても参謀として抜け目がない。その彼が、曹操軍に対してどういう考えを持っているのか?)
 この国の全土が、いや、曹操以外の勢力が、降伏か敵対かに揺れ動いている時期でもある。しかし、周瑜が降伏派とは考えられない。
「孫策が死ぬ直前は確か…」
「はい、曹操の許昌を攻める準備をしていたようです。それに強く反発したのは、張昭、張紘といった文官が中心だったという話です」
「やっぱり周瑜は主戦派かな」
 いや、天下取りの意思を持っている、と考えた方がいいだろう。となると、何を考えるか。劉備軍が孫権を利用するなら、周瑜の考えを読み、それに上手く乗っていかなければならない。
 江夏を取る動きは、盛んに見せていた。荊州の江夏は孫権の領土に食い込むような形だし、何より江夏を守る黄祖は、孫権の父、孫堅の仇でもある。
 重要なのは、孫権と曹操を衝突せざるを得ない状況にすることだ。そこに初めて、劉備軍が動く隙が出てくる。
 孫権が江夏を取り、さらに南郡、江陵をとる。そうなれば、曹操は荊州の半ばに入り込んだ孫権を無視出来ない。江陵は劉表が一大軍事拠点にしているし、荊州の南郡以東は複雑に河が入り組んだ地形だから、曹操も水軍が精強と言われる孫権軍がいれば一挙に荊州制圧ということは出来ないだろう。
 その間隙を突いて、劉備軍が南荊州を取る。そういう方向で、ここ数ヶ月孔明と徐庶は文官を使って工作を続けてきたが、実らなかった。
 反曹操勢力を浮き彫りにさせないために、荊州をまとめ切れていない蔡瑁を生かしておかなければならなかった。だが、逆にその蔡瑁によって何度も邪魔をされた。そして、孫堅、孫策という君主と違い、思いのほか孫権は腰が重かったのだ。
「そういえば、この間徐庶様にお会いしたとき、お茶を頂戴しましたわ」
「へぇ、お茶か」
「お茶のように、高級でも毎年実るのが分かっていれば、人間も苦労はしないとおっしゃっていました」
「そうだね、先のことが分かれば楽なんだけど」
「お茶、入れてきますね」
 天下三分、先のそのまた先のことだ。荊州と益州を足がかりに、孫権、曹操に拮抗する力を得る。考えるのに意味がないとは思いたくない。しかし、曹操は強大だった。それも、民が噂に怯えるほど…。
 荊州をもっと早く取れば。それはいまさら言っても仕方がないし、劉備の性格を考えると難しいのは分かっていた。それに、たとえ手に入っても、怒涛のごとく押し寄せる曹操軍とやり合わなければならないのだ。
「孔明様、お茶を…あっ!?」
 月英が、躓いてお茶を机の上に落とした。高い所からだったというのに茶碗は割れず、お茶は机の上を流れていく。
「すみません、孔明様!」
「月英、大丈夫かい? 君にしては珍し…」
 孔明の目が、流れるお茶を視界に入れて止まった。体中に、虫が這いずるような感覚。
 まさか。
 その茶の流れは若干の曲線を描きながら、ほぼ直線で左から右へと流れていた。
 まさか。
 その茶の流れが、あたかも広大な長江の流れのように、孔明には見えて、いた…。
 天下…二分…!!
 先のこと。周瑜がそこまで考えているとしたら? 曹操に勝つことを前提に、そこまで考えているとしたら!?
孫権に仕えている兄に手紙を送らなければ。それが思い浮かんだ。荊州の南半分を渡してもいい。孫権軍と連携し、荊州で曹操を止めなければ…。
 天下三分への道は…、消える!
 孔明の背を這いずる虫は、まだ動くのを止めようとはしなかった―――。

copyright(c) Soumeitei Co.LTD,2008