第二章 第二話

「母を新野に呼んでもいいと劉備様がおっしゃった」
 そう言った徐庶の顔は本当に嬉しそうだった。いずれ戦火になる場所にわざわざ呼ぶことはないという劉備に止められていたのだが、それでも母と一緒にいたいという徐庶の説得に劉備が負けたようだ。
 孔明の家族といえば今は呉の孫権に仕官した兄と、随分前に旅に出たきりの弟だけだ。両親を早くに亡くし、孔明には羨ましくはあった。
 しかし、結局その話はすぐに見送りになった。曹操軍が、南下の準備を始めたという情報が入ったからだ。
「お前の思っている展開になればいいが」
「…僕の思うように曹操が動いてくれるような人間なら、あそこまで大きくはならないよ」
「江陵、南郡を孫権が取ってくれなかった。もう少し黄祖に対しての内部工作に力を入れればよかったな」
「蔡瑁がいたから仕方ない、かな。でも、劉備軍に潜在兵力がいかほどあっても、独力で曹操に対抗することはもう不可能だから…」
 いかに孫権を曹操と戦わせるかという、その一点。そこに全ての力を注ぐことが劉備の行く末を示すはずだった。だが、今はそれだけではない。孫権が天下三分の構図に混じってくる共に、孔明の頭に舞い込んできている不安。
 しかし徐庶はそんな孔明の思いに気付くはずもなく、疑問を口にする。
「本格的な対峙になったとき、果たして孫権が曹操に勝てるか…?」
「分からない。でも、もう劉備様に残された道は少ない」
 徐庶に話そうか、しばし迷った。しかし、徐庶は劉備が忠義の元に荊州を取らないのをむしろ賛成している風がある。そういう所にも惹かれているのではないかと思うと、とても言い出せなかった。
「さぁて、曹操はどう出るかな?」
「先日撃破した夏侯惇軍。あれがあったから、まず劉備軍を叩き潰しにくると思う」
 夏侯惇軍は孔明と徐庶の立てた作戦によって壊滅的な打撃を受けた。徐庶が軍を指揮し、劉備軍はほぼ無傷の大勝であった。
「大軍は後から付いてきて」
「荊州に最後のとどめとしての脅しをかけて来る」
「樊城で交戦ということになれば…」
「ある程度戦って、本当にただの盾のように使われるようなら、敗走したように見せかけて、そのまま襄陽へ」
 曹操が攻めてくることになれば、蔡瑁の存在はもう必要ない。
「徐庶、君には蔡瑁を斬ってもらうことになるかもしれない」
「それは任せてもらおう。まだ腕は鈍っていないつもりだ」
 徐庶が右腕を握り締め、不敵な笑みを浮かべる。
「しかしもし劉表殿が降伏したら、どこへ逃げる?」
「江夏、かな」
 江夏には、劉表の長男である劉埼が江夏太守として赴任していた。次男の劉j、その背後の蔡瑁との権力抗争を恐れていた劉埼は、孔明の助言によって江夏に赴くことを決めたのだ。
「そして、決して降伏しないという意思を持った劉備軍が、揚州と荊州の接点に逃げる」
 まるで反曹操の御旗である劉備が、味方の元へ逃げるように。間違いなくそういう噂は広まるだろう。そして、孫権は選択を迫られる。劉備の首を取って曹操に送るのか、それとも劉備を守り曹操と戦うのか。
「曹操と戦うということは、そのまま劉備軍を守るということ、か…。やはりここまで考えて、劉埼殿に江夏に行くよう勧めたんだな」
「劉埼殿はとても弱々しい方だった…。何か自分を見ているようで…。結局は利用する形になってしまったけど…」
「猜疑心に固まった劉埼殿を説得することは、容易ではなかったはずだ。あのときのお前の弁舌はなかなかのものだった」
 孔明の顔が、少し曇った。
 確かに、あの時は思った以上によく言葉が出た。それがなぜなのかと自分の胸中に探りを入れるほど、その曇りは増す。
 劉埼は、病弱だった。先が短いのだろうと、誰が見ても思うほどだった。死んだ人間は土に還り、還った人間はもう人間ではない。
 劉埼を何の躊躇いもなく説得するような弁舌が出来たのは、相手を人間と思わず土にも似たように見て、ただ利用するためだけに相対したからではないのか。
 また黒いものが胸の奥から湧き出てくる感覚。恥ずべき感情。自己嫌悪はその振り払えない暗黒の部分に、巻かれるようにして浮いては沈む。気分が悪くなりそうだった。
「…孔明?」
「いや、なんでもないんだ」
 今は忘れるしかない。それが一時的であれ、今は考えなければならないことがあるのだ。
「江夏に真っ直ぐ向かうか?」
「ううん、江陵にまず向かう」
「江陵に? なぜ?」
「劉埼殿の軍と反曹操勢力を結集して、取れそうだったら取る。ある程度江陵の守兵には根回しをしているから、降伏を表明するまでに時間がかかるようなら、十分取る機会はあると思う」
 江陵の物資は膨大な量に上り、軍事拠点としても劉表は十分なものを作り上げている。例え十数万に囲まれたとしても、そう簡単に落とされはしないだろう。そして背後は、劉埼がいる江夏である。孫権と同盟を結び援軍を要請すれば、水路の豊富な荊州なら孫権の水軍が力を発揮してくれるはずだ。
「大切なのは、孫権と対等な同盟を結べるかどうかだから」
 兵力と土地という点では、今の劉備軍は圧倒的に孫権軍にも劣る。先のことを考えれば、孫権の客将という立場に収まることは下策で、あくまで同等の存在と主張できるものを持っていなければならない。その価値のあるものの一つに、江陵がある。
「だが、曹操はそんなことをさせるか?」
「もし江陵を取ることが不可能と分かれば、すぐに江夏に進路を変更」
「しかしそれではお前の言う対等に持ち込む条件が…」
「劉備軍が新野から樊城に移ったとき、新野の多くの民が樊城に移住してきた」
「孔明、それは…」
「国家は民のためにある。民が平穏に生きるための国家は、民の力で切り開かなければならない、っていうのは傲慢だと思うけど…」
 荊州に来てから劉備軍は二度、曹操軍を破っているのだ。それ以前からも、劉備は徳の将軍としての名はあった。名声。それは十分武器にし得る。河北最大といわれたあの袁紹も、その名家たる血筋だけで人は集まり、今の曹操軍とそう変わらない兵力を擁していたのだ。
「土地がなくとも一つの国を作ろうというのか…、孔明!」
「…」
 あまり見ない徐庶の興奮した表情に、孔明は圧されるように笑みを浮かべた。少し歪んだその笑みの裏には、決して消え去ることのない不安が隠れていた。
(この作戦なら、江陵は無理に取る必要はない。実戦に長けた曹操軍を相手に篭城するような危険を冒すよりは、むしろ最初から江陵は捨てるつもりで動いたほうがいい。だけど…)
「元直、次の軍議では、荊州が降伏した場合の想定は話さないで欲しい」
「ん? 樊城で戦う場合を想定しての話をしろということか?」
「どこかで漏れると困るから…」
「分かった」
 天下二分。
 周瑜公謹という男が本当にそんなことを考える人間ならば、全く今の作戦の要所価値は逆転する。
 江陵は取らなければならない。でなければ、劉備軍の益州への道は確実に塞がれる。
 それは、天下三分が塞がれることに他ならない。
 不安と焦燥。孔明の胸の奥に、蛇が何匹ものたうっているようだった。そしてその蛇は、とてつもなく重かった…。


「孔明様…」
 月英が話し掛けてきた。
 館で、腕を枕に横になり、空を見ていた。屋根はあるが、孔明は空を見ている気分だった。
「どうしたんだい、月英?」
「何か、お考え事ですか?」
 月英から目を離さずに起き上がり、笑顔を浮かべる。
「いつも、考え事ばかりだよ」
「でも、いつか劉備様が訪ねられたときのようなお顔を…」
 月英。孔明のことは何でもお見通しなのだ。嬉しいような反面、少し動揺してしまう。
「月英。劉備軍は南下する曹操と戦わなければならない。僕は君のことをかまってやれないかもしれないから…」
「大丈夫です。いざという時は流民に変装してでも逃げますから」
「頼もしいな」
 笑いが大きく声に出た。ひとしきり笑うと、また横になる孔明。月英には、話しておこうと思った。そうすれば、少しでも気が楽になるかもしれない。
「必ず、生きてまた会おう」
「はい」
 しかし、止めた。言う度胸がなかった。これではまた、久しぶりに徐庶に会ったときのように自分の胸に秘めているものを、そのまま秘めたままで無かったことにしてしまうのではないかという考えがよぎった。
 荊州を取るという孔明なりの出世策が、徐庶に話す前に打ち消えた、あの時のように。
 いや、今回は違う。そう自分に言い聞かせる。ぎりぎりまで劉備を追い込む。それで、荊州を取る説得をする。そこにしか、孔明の理想である天下三分の道は無いのだから―――。


 軍議だった。
 孔明は、徐庶に言われて軍議が行われている幕舎の外にいた。お前にも何か話してもらうことがあるかもしれない、と言って引っ張られたのだ。孔明は、軍議に呼ばれるほどの役職には着いていないので、徐庶に呼んでもらうくらいしか方法が無いのである。
 張飛の声だけが、外に響いてくる。張飛は曹操軍と真っ向から戦う考えしかないのが、聞こえてくる声の内容で分かった。
 そう時間も経たずに、徐庶の呼ぶ声が聞こえた。
「軍師さんよ、そんな青ビョウタンを呼び入れてどうすんだ?」
 張飛の声を受けて背中が痛くなるような気さえしたが、なんとか動揺を抑えて徐庶の隣に座った。
「まあ、どうでもいいや。なあ、兄貴! 今からでも遅くはねぇ、荊州をとっちまおうぜ!」
 張飛が言うと、すかさず趙雲が横槍を入れる。
「荊州とって曹操軍相手に踏ん張るのは嫌だよ、張さんよ。俺たちは逃げるほうが得意だし、逃げて楽しようや」
「俺の楽しみを奪おうってのか、子竜!?」
「止めよ、二人とも」
 関羽が間に入る。
 張飛と趙雲をちらりと盗み見る孔明。張飛は怖いほど分かり易いが、趙雲というのは不思議な人間だった。お茶らけてあまり戦いも好まず、むしろ面倒なことだと嫌う感じがある。それでいて、劉備、関羽、張飛の兄弟に四番目の兄弟と言われている。張飛と趙雲はよく衝突し、間に入るのは必ず関羽だった。
「先ほどの話の続きですが、樊城で曹操軍を止めるのは非常に難しい」
 孔明は、無理に軍議で発言しようという努力はしなくなった。徐庶が、全てを分かって話してくれる。しかし、それでいいのか。自分の実力を試してみたいと思って、劉備に従ったのではないのか、そういつも思う。悔しさ、とは思いたくなかった。それでは自分が、あまりに小さく見える。
「それに曹操は大軍。こちらを抑えつつ襄陽へも攻め込む兵力は十分にあります。つまり、樊城で踏ん張るのは無駄でしかないのです」
 徐庶が場を見渡した。ちらりと孔明を見て、何かを訴えかけたようだった。孔明は、無意識のうちに首を振っていた。
「よしんば樊城で踏ん張って曹操軍を抑えたとしても、時がかかりすぎます。時がかかれば、曹操の大軍にあっという間に降伏の声が広がるでしょう」
「俺たちが戦っている間に降伏するとでもいうのかよ!?」
「そりゃ、あの蔡瑁がいるんだぜ、あいつは戦うなんてことはしねぇよ。せこせこ頭を下げて曹操に降るさ」
「てめぇみたいにせせこましい野郎だからな!」
「おい、そりゃいくら虎髭でも聞き捨てならんぞ!」
「止めよ、と言っている二人とも」
 少し強めな関羽の口調に、張飛がしゅんとなる。それを見て嬉しそうに鼻を鳴らす趙雲。
「ここからは、孔明に話してもらおうと思います、孔明頼む」
「え、そんな…」
「なに!?」
 張飛があからさまに嫌そうな声をあげた。張飛のような一直線な人間には、おどおどした自分は歯痒い存在なのだろうとは分かるが、萎縮するしか孔明にはできなかった。視界に写るものも何がどれなのか分からなくなってくる。劉備は…、徐庶はどこへ行ったのか…。張飛の顔は鬼のような顔なのではないのか…?
「孔明」
 徐庶の声か? 重い、その声が重い…。
「その…」
「てめぇ、徐庶に乗っかって手柄を奪おうってんじゃないだろうな!?」
「張さん、脅すのは可哀想だろう。孔明殿が以前懸命に話してくれたのを忘れたのか? 待ってやろうじゃあないか」
 趙雲の声は優しいと感じた。少し、趙雲の顔を見てみたくなる。
「変なところで甘さ見せやがって!」
 趙雲と張飛が睨み合うのが見えた。徐庶が、その隙間を縫うように話し掛けてくる。
「荊州には一大軍事拠点があるんだったな、孔明」
「一大…軍事…拠点…」
 荊州の…、劉表が作り上げた最大軍事拠点…。江東の孫権も近く…?南郡…、江陵…。
「荊州には、その…一大軍事拠点が…、あります」
 何かが脳裏に浮かぶ。軍船…、膨大な兵糧…?
「だからどこなんだよそりゃ!? 孔明さんよ!!」
 張飛の野次が飛んでくると、顔の筋肉がしわくちゃに縮こまる。脳裏によぎった何かが吹き飛んだ。ちらりと見えた劉備の顔が、厳しかった。
「その、長江に面して…、劉埼殿のいる江夏にも…近く」
「孔明、江陵と樊城での曹操軍との戦闘、どう関係して来る?」
 徐庶の声…。江陵の膨大な物資、曹操軍との戦闘。孔明の脳裏にそのイメージが再び浮かぶ。ずっと正確に、現実のようなイメージ。視界のものがうつろいゆく。何がある? 回りには何もない。ただ、自分の世界だけが、そこに広がっていく。
「南郡の江陵は、荊州の一大軍事拠点です」
 視界に、劉備の顔が見えた。無表情だ。劉備に伝えよう、そう思った。いつの間にか、立ち上がっていた。
「樊城で戦っていた場合、先ほど元直の言ったように荊州が降伏に傾く可能性があります。もしそうなった場合、劉備軍は逃げ場を失います。反曹操勢力が我が軍に付いて立ち上がってくれても、それをことごとく失うことになるのです。ですから、短期間でそれを保持できる位置に行かなければなりません」
 劉備が、頷いた。その顔を視界の隅に認識しながら、孔明の脳裏には劉備軍の行軍の予想図が浮かぶ。言葉は、水の流れ出るように止め難く、自然に口から溢れ出た。
「でも取り囲まれてからじゃあ、曹操軍が簡単に逃がしてくれるとは思えないけどなぁ?」
 趙雲が言った。周りが頷いている。
「そうです。だから、負けたフリをするのです。ある程度戦い、敗走する。そして、江陵へ向かう早急に取ってそこを固めれば、反曹操勢力が次々と結集してくれるはずです」
 軍議の場を見渡した。不思議だった。針に包まれたような場であったはずなのに、そこには孔明の口から出た水が浸透していくのを見るような心地よさがあった。
「劉埼殿の軍と合流し、江夏を背景としていれば、最低限の…」
「…孔明」
 今まで、ほとんどが頷くばかりで声を出さなかった劉備が、孔明の名を呼んだ。
「はい」
「劉表殿の領土を、混乱に乗じて掠め取ろうと言うのか!?」
 初めて聞く劉備の怒号。それは、張飛の大声よりも鋭く、耳から入ってきたその怒号は孔明の方寸を鷲掴みにし、張り裂けんばかりに握り締めてきた。
「あ、その…」
 孔明は、急激に視界が狭くなっていくのを感じた。体が揺れていつの間にか自分が、腰が抜けたように椅子に座り込んでいるのに気付いた。
「曹操に敗れ、それでも敵として逃げてきた我らを劉表殿は受け入れてくれたのだ! 守りこそすれ、奪うことなど有り得ん!」
 体が震えていた。目を上げられない。地面をじっと見て、子供のようにしわくちゃの顔で恐怖に耐えていた。元直、そう小さく呟くのがやっとだった。
「劉備様」
 徐庶が、立ち上がった。
「劉備様は劉表殿の恩義に報いるためにも、また自らの志のためにも、曹操と戦うことを決意されているはずです」
 劉備がどんなに怖い顔をしているのか、それを見てしまうのが恐ろしくて、孔明はずっと俯いていた。孔明を訪ねてくれたときのあの劉備の涙に濡れた顔が、一瞬脳裏によぎって霧散した。
「ここで、曹操にただ盾として真っ向から立ち向かうのは、それは確かに一つの忠の道。しかし劉備様は、小さな体面と大義の根幹である忠義を履き違えておられるのではありませんか? 大切なのは劉表殿が平穏を守ってきたこの荊州の大地を守ること。違いますか?」
 しばしの沈黙。
「そのためには、最良の曹操への対抗策を練ること。そしてそれが、江陵を一時借り受けてでも曹操に対しての防衛線を張ることなのです。劉表殿がもし曹操と戦うことを決意されているのなら、襄陽と江陵、この二つを結ぶ防衛線を主軸になさるはずであり、劉備軍はその最も重要なものの一つである江陵を守る任に就く。それもまた、忠の道なのではありませんか?」
 再び、しばしの静寂。劉備が、ふうと一息付くのが分かった。
「…軍師殿、孔明。声を荒げたことは謝る。確かに軍師殿の言うとおりだ。曹操に対するために借り、そして事が終われば返せばよい。そういうことだな」
 少し孔明は顔を上げた。劉備が、頭を下げているのが分かった。
「頭をお上げください、劉備様。私も少し言葉が過ぎました。しかし、分かっていただけたのは幸いです」
 その後は、徐庶がもう少し細かい話をして、軍議は終了した。孔明はその間、決して顔を正面まで上げることはなく、自分の情けなさに唇を噛んだ。
「孔明、いつまでここにいるつもりだ」
 軍議が終わったことにも気付かず、孔明はうなだれたままだった。
「元直…」
「気にするな。劉備様があそこまでお怒りになるのは珍しい。驚くのも無理はない」
「結局、言い切れなかった…」
「また次がある」
 次がある。その言葉は、重く孔明にのしかかる。
 次に劉備に進言するとしたら、またしても不忠な進言になるだろう。その進言は、劉備軍の未来を左右する。しかし、果たして言えるのか。劉備に怒鳴られ張飛に蔑まれても、それでも自分は言えるのか。
 呼吸が苦しい。不安は、孔明の足が着いた地面を砕き始めていた…。
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