第二章 第三話

「孫権が江夏郡を取った!」
 徐庶が駆け込んでくる前から、孔明は知っていた。月英からの情報だ。
「かなり周到に準備していたみたいだね…」
 あっという間に攻め寄せ、何度も逃げられていた黄祖も捕えられて首を刎ねられたという。劉埼は一時的に江夏から国境線に退避した。
 それを聞いたときには、若干の焦りがあった。曹操を無視して孫権が荊州に攻め寄せた場合、劉備次第では孫権との同盟が難しくなる。そうなれば、荊州の混乱が収まるまで単独で維持しなければならなくなるだろう。下手をすれば、孫権まで敵に回るという可能性が出てくる。
「孔明様」
 月英が、少し慌てた様子で部屋に入ってきた。
「劉表様が…」
「死んだのか!?」
 徐庶が叫ぶように言った。孔明も思わず目を細める。
「劉備様が幕舎に来るようにとのことです」
「行こう、孔明」
 徐庶の声は緊迫していた。あまりにも、あまりにも状況が急転しすぎている。
 孫権の荊州進行、劉表の死、曹操の南下…。ここまで自体を把握できている人間が一体いまこの国に何人いるのか。孔明すら、予想していた事象が予想だにしないタイミングで迫り来ている。
(ここからなのか…。僕の力と、民のための天下三分…。この恐るべき天の流れから、その道は始まるのか…!)
 背筋に流れた汗が、やけに冷たく感じた。


「軍師殿、劉表殿が…」
「ええ、恐らく後継は劉j殿にすぐ決定するはずですから、荊州の動向をいち早く把握しなければ…」
 孔明は、劉備を見ながら頭ではまったく別のことを考えていた。
 劉備を説得するには、追い込むしかない。この上手く転がった緊迫した状況の中で、自分の考えを、劉備の未来を、劉備に示さなければならない。
 徐庶もまだ気付いていない。
 曹操が、間違いなく劉表の死に気付いていることを。
 そして、立ち塞がるものは劉備以外なく、それを撃滅するために恐るべき速さで精鋭を南下させているであろうことを…。
 反曹操勢力とは、密に連絡を取れるようにしてある。蜂起してくれという知らせを送れば、すぐにでも劉備軍の兵力は倍増する。襄陽を固め、一部を割いて江陵を取る。その防衛線を作った上で、孫権と同盟し援軍を要請する。
 ここが一つの岐路なのである。天下三分への道の、最初の近道。これを失敗すれば、孫権が周瑜の元に天下二分に動くかも知れない。そうなれば、道はなくなるわけではないかもしれない。しかし、時がかかり過ぎる。遠回り過ぎるのだ。
「劉備様、出陣の用意を致しましょう。どういう状況になってもすぐ対応できるように」
「大丈夫だ。それは関羽、張飛、趙雲がぬかりなくやっている」
 孔明と徐庶、劉備は、部隊の整列した城外に出た。
 関羽は、最初から江夏へ向かわせる。趙雲か張飛どちらかは劉備の護衛、もう一方は江陵へ向かわせる。襄陽を固める軍の指揮は、関羽の息子の関平や、糜竺の弟の糜芳がいればなんとかなる。
 しばらく経つと、襄陽からの使者がやってきた。その使者は、どこか怯えているような印象があった。降伏だな、と孔明は確信した。
「なに、降伏なされると!?」
「なんだとぉ!?」
 張飛は叫びとともに使者の胸倉を掴みかかり、使者はすぐに気を失った。
「軍師殿…!」
「ここで曹操軍を待ち受けても、もはや荊州は降伏。つまり曹操軍に挟撃されるということになります。真偽を確かめるためにも、襄陽へ向かいましょう!」
 劉備軍には、さすがに慌てふためく兵はいなかったが、それでも重苦しい雰囲気が立ち込める。
「急ぎましょう、曹操がいつやってくるか分からない状況なのです」
 樊城から襄陽へと長江を渡渉する劉備軍。城外に出ていた民が、何やら騒がしかった。いい予兆だ、と思う。予想通りになってくれればと思いながら、徐庶の後を馬に乗ってついていく。そう時間もかからず着いた襄陽は、この状況の中でも何も変わらないように見えた。
 襄陽城に、劉備と徐庶、護衛の兵数十人が付いて近づいていく。孔明は、劉備と徐庶の姿が、ぎりぎり見える程度の位置に待機している軍の中で襄陽城を見ながら、自分が震え始めていることに気が付いた。
 言わなければ…。劉備に進言しなければ…。
 迫り来る曹操軍。孔明にとって、これは初めての実戦になる。人が死ぬし、自分も戦わなければならないかも知れない。想像するだけで恐ろしかった。逃げたい、このまま江夏か戦いの無い土地に逃げたい。
 しかし、それでは何のために考えてきたのか分からない。夢のため、自分の力を試すため。劉備に仕えることを決意し、その道への岐路がここにあるのだ。
 その事実を、劉備に伝えなければならない。不忠と罵られる、いや、純粋に敵意に近いまでの感情を剥き出しにしてぶつけられるのが怖かった。あの時のように怒鳴られて、それでも自分は徐庶のように理路整然と劉備を説得できるのか…?
 襄陽城の城門が、開いた。しかし、様子がおかしい。激しい剣戟の音と悲鳴。誰かが、劉備軍を城内に引き入れようと城門を開け、劉jの軍と戦闘しているのだと、孔明は考え至った。そして、驚愕した。
(魏延殿!?)
 劉jの軍と中心になって戦っている人物。一度しか見たことがないが、そう簡単には忘れられそうにない顔をしているのだ。間違いない。
 孔明は、思わず顔を伏せた。
 何度か、書簡を送り合った。もし襄陽に混乱が起きるような事があれば、自身の判断で内応する。劉備軍に仕官しないのならそうしてくれ。そういう話をつけていたのだ。
 しかし、確かに魏延は自分の判断で動くことに迷いない人間だとは分かっていたが、孔明が荊州のクーデターを諦めていたのだ。まさか魏延の中ではその意思が消えていないなどとは思わなかった。
 孔明は、激しく動揺した。ここで魏延と劉備が接触するのはまずい。いや、自分にとって都合が悪いのだ。汚い、性根が汚いのだ、と心で叫びながら、しかし孔明は、こうも叫んでいた。
 斬られてしまえ…。
 孔明の思うようにはいかなかったが、魏延はすぐに劉jの兵たちに追い散らされた。魏延は、その兵に追われて姿が見えなくなった。思わず孔明は、深く息をついていた。
 騒動の後でしばらく劉備が襄陽城に向かって叫んでいたが、孔明にはよく聞こえなかった。方寸の鼓動が、耳いっぱいに広がっていたからだ。
「劉j殿は降伏なされた」
しばらくして戻ってきた劉備の最初の一言は、それだった。
「でも兄貴、後からついて出てきたのは…?」
 見れば、劉備たちが戻ってきた後から、手に武器を取った兵士や、粗末な服を着た民たちが次々と襄陽から溢れ出してくる。
「劉備様は、劉j殿の館の前で劉表殿への忠義の思いを叫ばれた。それに感じ入った者たちが立ち上がってきたということだろう」
 徐庶がそう言った。ちらりと孔明に笑みを向けてきた。孔明の予想通りであることに対する合図だろう。
「劉表殿には申し訳が無いが…、孝を捨てた劉j殿とは袂を分かたねばなるまい…」
 次々と溢れ出してくる人、人、人。それらが、劉備軍の回りを埋め尽くしていく。劉備軍よりも数が多いのではないかと思わせるこの場は、だんだんと喧騒に包まれていく。差し上げられた剣を持つ手が、その数を次々と増やしていく。
 その目まぐるしい視界の中で、孔明の目は現実とかけ離れたものを見ていた。いや、実際は何も見えてはいないのだろう。ただ、呼吸が荒い。震えが、激しくなる。
「軍師殿、どうするべきか?」
 徐庶に尋ねる劉備は落ち着いていた。だが決して、その心中は穏やかではないはずだ。周りの全てが敵になった。軍を率い、民に囲まれ、その行く末を模索しているはずだ。
「まずは…」
「りゅ、劉備様…!」
 飛び出た、と思った。爆発させたかったのだが、しなかった。やっと出た、その程度のものだった。
「…孔明?」
 徐庶が、眉根を寄せたが、すぐに笑顔になる。きっと、自分で話す気になったのだ、そう思ったのだろう。
 しかし、孔明の方寸は破裂しそうな勢いで鼓動を打つ。声より漏れ出ているのではないのか? その音が、その動きが。
「どうした、孔明?」
 劉備が、見てきた。いつか見た、そこにしかない存在。それだけが、孔明の視界に留まるもの。
「荊州を…、取りましょう…!」
 言った、言えた。
「何…?」
 徐庶が、驚いていた。見開かれた目に、孔明は自分の体が縮こまるのを感じた。裏切ったのだ、という言葉が頭を駆け巡った。今までそんなことは思いもつかなかったのに、なぜ今ごろになってそんな言葉が頭に浮かぶのか…! 苦しい…!
「孔明…。なぜそんなことを今言うのだ…?」
 劉備の声は、とても静かだった。しかし、この喧騒の中にいて、劉備の声だけがはっきりと聞こえた。
「こ、ここで荊州を取っておかなければ…」
「劉表殿の喪もまだ明けていないときだというのに…」
「劉備様の道は…」
「黙れ!」
 ぱん、という音が聞こえた気がした。劉備。劉備のため…? 自分のため…? 自分の力、それだけだったのか? きっと、劉備に向かう自分の中の何かがあった。それだけが、暖かいものだった…。その暖かいものだったのだろうか。何かが、弾けたのだ。自分の中の何かが、弾けた…。
「劉表殿が死んだ途端に荊州を取る!? 以前お主と軍師が言ったことは確かに納得した!」
 ここで荊州を取らなければ、あなたの道はなくなるかも知れないというのに…?
「しかしお前の今言っていることはただの不忠の輩のすることだ! 何のために私が今まで戦ってきたのだと思っている!?」
 僕の考えが間違っているということですか…?
「民が怯えぬ国を! 漢王室を復興させるため!」
 僕はあなたに一体何をしてさしあげればいいんですか…?
「そんなことは二度と申すな、いいな!」
 人に伝えなければ意味がないなら…、僕はあなたにとって何の価値も無いことになりますね…。
 劉備が、視界から消えた。と思う。
 視界がおぼろげだった。涙のせいだ。
「行こう、孔明」
 ぽんと肩を叩かれた。徐庶。
「何かお前にしか分からない考えがあったのだろう。私は劉備様の忠孝の道は曲げさせたくない。しかし、諦めるな孔明、歪むな孔明。それでも私は、お前に頼りたいと言ったことは嘘ではないのだ」
 涙が溢れ出てきて、徐庶の腕を掴んで泣いていた。劉備に慕う民の雄叫びの中で、唇を噛み締めて泣いていた―――。
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