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第二章 第五話

 徐庶の最後の進言により劉備軍が江夏に進路を変えたことで、追撃はかなり緩んだ。もちろん途中も何度か襲われたが、孔明はなんとか逃げ延びた。
 徐庶と別れたときに会った男が、何も言わずに護衛してくれた。笑いながら人を斬っていたのが、孔明に底知れない恐怖を与えた。
「りゅ、劉備様」
 劉備軍は、長坂の東の漢水沿いで関羽の水軍と、まだ逃げ延びてくる味方を待っていた。
「孔明か。徐庶のことは聞いたか?」
「は、はい、会いました」
「そうか…」
 特に会話は続かなかったが、孔明はもとより、劉備の心中も穏やかではないはずだった。
「いやぁ、爽快でしたねぇ、なかなか」
 当たり前のように劉備に近づく孔明を守ってくれた男。
「…その御仁は?」
「さ、さあ…?」
「ん?」
「ああ、私ですか! 私は…」
「糜芳将軍が戻られました!」
「おお糜芳、無事であったか!」
「兄上もご無事で…」
 糜竺と糜芳が手を取り合うのを見て、孔明はなんともいえない嬉しさを感じた。
 糜芳のぼろぼろで赤にまみれた服は、壮絶な戦いをしてきたことを示していて、その兜には折れた矢が数本突き立っていた。
「残る将軍は益徳と子竜だけか…。糜芳」
「はい、張飛殿は長坂橋を落とされ、こちらにもうすぐ到着なされると思いますが、趙雲殿は…」
「子竜が? どうした?」
「曹操軍が来た瞬間に、曹操陣営の方へ走り、私も追ってしばらくは耐えたのですが…。私の言葉も届かず、曹操軍に幾重にも囲まれ見失ってしまいましたので、致し方なく退却を…」
「曹操の陣営へ…? それでは裏切ったと」
「バカな!」
 誰かが言った言葉を遮るようにして、劉備が叫んだ。
「子竜が裏切るなどあろうはずがない! あれはああ見えて、忠義心の強い男なのだ!」
「も、申し訳ありません…」
「徳の将軍、劉備玄徳。いやあ思った以上に熱い」
 感慨深げに何度も頷く男。
「ところであなたは一体?」
「おお、そうだ、私は…」
「張飛将軍です!」
「兄貴ぃ! 無事か!」
「おお、益徳!!」
 立ち上がった劉備に、駆け寄って跪く張飛。張飛は全身血まみれで、手に持った蛇矛の柄もぼこぼこに曲がっていた。
「無事で、無事でよかった…」
「兄貴も…」
 劉備が大きな張飛の体に手を回す。まるで親が子を慈しむかのようなその光景に、孔明は魅入っていた。
「関兄ぃはまだなんですかい?」
 そう言う張飛が、おどけたように手をかざして辺りを見回す。劉備はふと笑い、ゆっくりと頷く。
「ああ、まだだが、すぐに来てくれるはずだ」
「曹操軍もすぐに追いついてくると思いますよ、急がないと」
「おお、天下無双の豪傑、張飛殿。ううむ、見るだけで気圧されますなぁ」
 劉備と張飛の絆に感じ入っている孔明の横で、男が呟く。
「あ、そうだ。あなた一体…」
 今度こそと思って尋ねる孔明。劉備と張飛もこっちを見てきた。
「いやあ、私はですね…」
「趙雲将軍ご帰還!」
 がくり、と男が膝を折ったのが視界の端に見えた。孔明の目は、すでに趙雲に移っていた。
「いやはや…、大変でしたよ、劉備様」
「子竜! 無事であったか!」
「趙雲殿、なぜあちらへ走られたのです?」
「おお、糜芳。途中まででもお前の援護がなけりゃ危なかった。助かったよ」
「子竜…」
「これですわ、これ。これがなけりゃ、長坂橋で張飛に切り殺されるとこでしたが…」
 張飛が鼻を鳴らした。趙雲は、懐に入っていた何かを取り出した。泣いている、赤子。
「この赤子は…?」
「若君です、申し訳ない。一応俺に任されてたんでね、劉備様の家族。甘夫人はあちらにいらっしゃいますが、糜夫人はすんません…、足手まといだって井戸に身を…」
「燐が…」
 糜竺が呟いた。糜夫人は、糜竺、糜芳の妹だった。
「子竜…! こんなもののために…、危うく私はお前を…。くっ!」
 一瞬、空気が色めき立った。劉備が赤子を掴み上げ、振り上げたのだ。
「どわぁっ、ちょっと劉備様! お気持ちはありがたいです、でもそれはお止めください!」
 趙雲が叫ぶと、劉備はぐっと唇を噛み締めて地に赤子を置き、趙雲を抱きしめた。
「二度と、二度とこんな危ないことをするでない。よいな…!」
「…はい」
 趙雲の雰囲気が変った、と思った。喋ることは冗談めいてはいるが、実際はとても真面目な人なのだろうと思う。
「孔明さん、あんたらしいな、張さんを長坂橋に止めたのは」
「え、あ、はい」
「助かった、礼を言うよ」
「いえ、それよりあの赤子は…」
「……。あんた、やっぱり目が違うね…。そうか、やっぱり違うか…」
「今は触れている状況ではないですが…」
「そうしてくれれば…、助かるよ」
「わ〜た〜し〜は〜、ですね!」
 孔明は肩を波打たせて顧みる。あの男だった。
「おお、そういえば誰だ?」
「…ようやく言える。私は、孫権様から使者として参りました、姓を魯、名を粛、字を子敬と申します。此度は、曹操の南下によって受けた劉備殿の軍の被害にはなんとお慰め申してよいやら…」
「孫権だぁ?」
 張飛がのそりと立ち上がる。魯粛は驚いたように両手を挙げて、大きい目をさらに大きく見開いた。
「張飛殿に凄まれては話が出来なくなってしまいますよ。まあ、もうしばらく話を聞いていただけませんか?」
 怖がっているフリにもなっていない。羨ましいほどの度胸だ、と孔明は思った。
「劉備様、これからどうなされるのです?」
 劉備が、一瞬孔明を見て話し始めた。その挙動に、若干孔明は戸惑った。
「蒼梧に呉巨という知り合いがいるのだが、それを当てにしている」
「蒼梧とはこれまた遠い! 江夏に劉埼殿の水軍がおられるのですから、どうせなら益州へ逃げた方がよっぽど良いのではありませんか? 同族である劉璋どのがおられるのです」
 益州。その言葉を聞いた瞬間、孔明は思わず魯粛の背中を凝視していた。
「ですよね、諸葛孔明どの?」
 振り返った魯粛の目と合った瞬間、孔明の全身に戦慄が走った。
「江南を治めている我が主、孫権様は、江南の豪傑をことごとくその人徳で心から屈服させ、その勢い留まるところを知りません。劉備様はどうやら倒すべき敵である曹操を目の前にしながら、その強大さに策を失いかけているご様子…。まあ、あれです。同じ曹操を敵とする者同士、同盟しませんか、ということなんですよ言いたいのは」
 何がおかしかったのか、魯粛の大きな笑い声が辺りに響いた。
「もちろん、このままでは一方的なので、よろしければどなたか腹心の方を孫権様の元へお連れしようと思うのですが、よろしいですか?」
「うむ…、しかし腹心となると…」
 劉備が一同を見渡す。が、孔明にそれが止まると、劉備は俯いた。
「我が軍の軍師は、曹操に家族を人質に取られてもういないのだ…」
「え、そうだったんですか? それはお気の毒ですな〜」
 劉備が、自分に何かを訴えかけている。勘違いとは思えないような、劉備の確かな目を見たのだ。
 徐庶の顔が、頭に思い浮かんだ。
 頼る、いや縋るのを許してくれる人間はもういない。そして、劉備軍の未来を徐庶と共に考え尽くした人間も、今は自分しかいない。
『お前が劉備軍の軍師だ』
 徐庶の言葉。天下三分。劉備の志に繋がる道であり、孔明自身の夢と理想の形、それを実現するために必要なのは、この目の前の豪気な男の言っていることなのだ。
(同盟成立だけじゃない…。周公謹という男を、この目で見てこなければいけないんだ)
 口を開けた。しかし言葉が出てこない。吐き出せ。搾り出せ。徐庶はもういない。夢は、理想は、いま自分の中にしか存在しないのだ。
「僕が…行きます」
 劉備と目が合う。その目に、送った。叩き込めはしない。しかし、短くも全力で紡いだ言葉。
「孔明…」
「おいおい、兄貴! そんなへなちょこ野郎じゃできるもんもできなくなるぜ!? 同盟なんてどうでもいいけど、そいつは当てにならねぇよ!」
「張さん、えらいむきになるな?」
「うるせぇ! 戦場でこいつ見てたら腹が立って仕方なかったんだ!」
 張飛の怒号の羅列に、孔明は耳を塞ぎたくなる。しかし、ここで諦めるわけにはいかない。自分のやるべきことは、自分の力でやらなければならないのだ。
「お…、お願い、します…」
 頭を下げる孔明の拳には、あらん限りの力が込められていた。
「ああ…!?」
「お願い、します!」
 …初めてだった。張飛の怒号を、自分の声で掻き消したのは。
「そうか、お前が行くか」
 劉備の声が、とても優しいものに聞こえたような気がした。
「そういえば諸葛亮殿、兄上の子喩殿とは、私は友人をやらせていただいております」
 魯粛が頭を下げてきた。それで、張飛の罵声は挫かれた。
「あなたの話は、よく存じておりますよ。もっと早く言うべきでしたか!? はっはっは」
 腹を叩きながらまたしても一人で笑う魯粛。しかし今の孔明は、それにつられて笑顔を浮かべる余裕があった。
「では孔明。孫権殿との同盟の話は、全て委ねる。頼むぞ」
「はい、劉備様」
 ただ頭を下げた。不安は決して消え去っていない。ただ、確かに心の一角に、強く固まったものがある。
 孫権と同盟するということは、孫権に曹操と戦う意思を持たせなければならないということだ。それを、自分がこれからやらなければならない。
 ただもっと重要なのは、今後の流れをどう読み掴んで利用していくか。目の前にいる劉備にいずれ話せる日がくるのだろうかと、ふと思った。戦略と違って、そういうことは先まで考えたことはない、とぼんやり考えた。
「魯粛どの、すぐにでも出発できますか?」
「ええ、ええ、できますとも。長江、漢水に限らず、河にさえ出ればどこへだって行けますとも」
「では、すぐに準備をします。このまま先に岸へ向かってくれませんか」
「分かりましたよ、諸葛亮殿」
 魯粛が、特に尋ねるでもなく歩き出した。何か、孔明の空気を感じ取ったのだろう。
 魯粛が見えなくなると、孔明は俯いて劉備に近づいた。
 ずっと見ていると、勇気を吸い込まれそうだったから。
「劉備、様」
「どうした、孔明?」
「僕は、その、元直に、言われました…」
 胸の鼓動が、少しずつ激しくなってくる。挫けるな、吐き出せ。ここで折れてしまうなら、一体魯粛に付いていって何が出来るというのだ。
「その、私の代わりに軍師なれと…」
 小さな声だった。劉備にしか聞こえていないはずだ。もちろん、意識して余計に小さくなってしまっている部分もあった。
「うむ…。孔明、私がお前の家を何度も訪れたかのを忘れたわけではあるまい。しかし、まだお前は小さい。宝石のように光っている部分がある。しかし、小さくてそれが石の部分に隠れているなら、それは石なのだ。私は、お前の光る部分を信じている。それは、忘れるな」
「…はい」
 瞼を強く閉じないと、涙が出てきそうだった。
「劉備様、もし僕が帰ってこないときは…」
「なに?」
「そのときは、兵や物資は全て捨ててでも、益州へお逃げください…。それだけが、生き残る道でありましょう」
「…帰って来い孔明。それだけが、私から言えることだ」
 もう一度、深々と頭を下げた。

「お別れは済みましたか?」
「また戻ってきます。別れは告げていません」
 人懐っこい男なのだ、この魯粛という男は。もう、自然と話せる気がする。こんな人間は、会ったことがなかった。
「服…、着替えたんですか?」
「劉備軍の代表ですから、一応。実は劉備様の奥方の着替えなんですが…」
「はぁ〜、とりわけ地味なのを選んでこられたわけですね?」
「い、いえ、一応一番派手なものを」
「あ…、そう、ですか」
 初めて魯粛が言いよどんだ、と考えると余計恥ずかしくなってきた。甘夫人のものを取ってきて、針もない状態で劉備が仕立て直してくれたのだ。義勇軍として出発する前にはこんなこともしていたのだと言う劉備は、見たことのない笑顔を浮かべていた。
 だが孔明は背が高く、足の裾がお粗末になってしまうので、足は着ていたぼろ着を下で結び止めているようなもの。非常にかっこ悪く恥ずかしい。
 しかしもちろん嬉しい思いもあるから、複雑だった。間違いなく目立つだろう、と思う。
「長江を下りますから、馬なら七日はかかりますが、その半分もいりません。知ってます、揚州の水軍?」
「ええ、この国最強と言われていますね」
「そしてあなたは、伏竜、鳳雛のどちらかを得れば天下を取れると言われた二人の内の一人、伏竜・諸葛孔明」
「あれは司馬徽先生の皮肉です」
「たとえ皮肉でも大したものですよ〜。あの荊州文人の中心と言われる水鏡先生ですから」
「そう、ですか」
「それより、驚きませんでした? 揚州の孫権と中原の曹操が一度に攻め込んだの」
 軽い言い方ではあったが、とてつもない核を付いてきた。思わず顔が歪んだ。
「曹操の南下は周瑜殿が見事に読んで利用されたんですが、まさか劉表殿があの混乱の最中に亡くなられるとは、いやはや」
 周瑜、という言葉を聞いて、孔明の体が反応した。周瑜のことについて聞こうかと、少し悩んだ。
「劉備殿、いや孔明殿は、最初から同盟するつもりだったんですよね?」
 なんだ、この男は。口を突いて出そうになって慌てた。そこまでずばずばと喋るのか。何もかも話してしまおうというのか。
「いや、子喩どのの書簡の内容がそういう臭いをさせていたものですから」
「なら、兄に送った書簡、役に立ったということですね」
 その後は、孔明の自身の話と、兄の謹の話になった。それ以上は、驚かされるようなことは何も喋らなかった。上手くはぐらかされたような気もするし、話したいことだけを話しているだけにも思えた。
 この魯粛が言っていることが孫権軍の総意ならば、これほど好都合なことはない。第一の問題は、いかに孫権を曹操と戦わせるかという点だからだ。
 もしすんなりと同盟がなるようであれば、孫権が劉備をどれだけ大きい存在として受け止めるかである。それで劉備軍に対する対応が変わってくるからだ。強引に孫権軍に組み込まれるようなことは避けなければならない。
 漢王室復興を掲げ、徳の将軍として名を売ってきた劉備。荊州での二度の曹操軍撃破。十数万の民を引き連れた逃避行。路傍の石程度に認識されるような小さな存在ではなくなったはずだ。しかしそれを、上手く伝えることが出来るのか。長坂での敗北での傷跡を上回る材料として、自分は完璧に利用できるのか。
 船での長い移動というのは初めてだった。樊城に行く時に渡し舟に乗った程度だ。
 馬で、沿岸を駆けたことは幾度もある。だが、水面に囲まれて進んでいくのはやはり違った。自分の力で歩くわけでもなく、馬を操り進めるわけでもない。ただ体に風を受け、緩やかに過ぎていく景色を眺めていられる。孔明たちが乗っている船と比べると圧倒的に小さな船が、時々視界に入る。その度に、魯粛は大きな声で挨拶していた。
「見えましたね、あれが孫権様のおられる柴桑ですよ」
 船に乗って三日目の夜。暗闇が支配する中、遠くにかすかに火の光が見えた。孫権のいる城郭だろうか。
 乗ったばかりの頃は良かったのだが、さすがに乗りなれていない船に揺られて、孔明は気分が悪くなっていた。
「酔ったみたいですね。まあ、今日はゆっくりとお休みくださいな」
 そう言って魯粛はすぐに館を用意してくれた。暗闇のなか見える空の星は、どこで見ても変らない宝石のような輝きをたたえていた。
 明日は、孫権と会うことになるだろう。何を言うか、考えているわけではなかった。孫権の態度次第だと思ったが、その前に自分が言いたいことをきちんと伝えられるかどうか、それが問題なのである。
(元直、僕は頑張るよ。頑張れるだけ、頑張ろうと思う。劉備様の、期待に応えられるように…。僕の理想を、叶えるために)
 緊張していたはずだったが、眠りに落ちるまでにはそう時間はかからなかった。


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