第二章 第五話

 翌朝、気分が悪いのもすっかり直り、魯粛と共に孫権がいる宮殿へと向かった。
「孫権様はこの時間は政務をしておられるはずですから、ちょうどいいでしょう」
「そう、ですか」
 魯粛の言葉に、孔明はわずかに安堵する。魯粛は孔明に協力的に見える。もし孫権にまだ迷いがあるのならば、魯粛も孔明を援護してくれるだろう。
 向かう途中、遠くに船団が見えて、しばしば孔明は足を止めた。綺麗だ、という言葉がまず出てくる。戦のためのものである。しかし、煌びやかな装飾を施された楼船や、多くの船が一糸乱れず並んでいる光景は、別世界に感じられた。行き交う人々も、荊州よりもずっと活気がある。
荊州は、どちらかというと文人の交流が多く静かな雰囲気が漂っていたが、この地は頻繁に水路を行き交う行商船や市場が、かなり賑やかな空気を作り出している。
 それでも孔明は、どちらかというと荊州の方が好きだと思う。今は、その荊州は曹操の支配下である。
「ここです、どうぞ、どうぞ」
 魯粛が、孔明を促した。
 城内の中心で、低い壁に囲まれた宮殿は想像したものよりは小さかった。しかし、一歩中に入れば水をふんだんに利用した庭園が広がり、何か心が透き通るような清々しさを覚えた。
 孫権のいる間へと進む孔明。胸の高鳴りに、孔明はだんだんと逃げ出したい衝動に駆られてくる。
 ここで失敗すれば、全てを失う。
「あ、ちなみに孫権様は意外と激情家で、やることもえげつないから気を付けてくださいね」
 魯粛の笑みに、孔明は強張った表情を返すことしかできなかった。
 最後の扉を開けた瞬間、まず正面の椅子に座った男が視界に入った。
「おお、魯粛。戻ったのか」
 そう声を上げたのは、正面の椅子に座る男。孫権だろう。
 だが、それだけではない。
 孔明は、扉が開き切った瞬間、数十の目が一挙に自分に向けられたことを知った。
 孫権陣営の臣。四十を越える人間が、左右に居並びその視線を魯粛と孔明に向けているのだ。
 孔明は目眩を感じ、自分の足があるのかどうか分からなくなった。視界が、揺れた。
 思わず、孔明は魯粛に顔を向けた。政務の最中? 完全に軍議の最中じゃないか!?
「魯粛!」
 だが、孔明の視線に魯粛が気付く前に、怒号が上がる。孔明は思わず目を瞑っていた。
「独断専行で劉備に会いに行ったというのは本当か!?」
 一際大きな、白髪が多く混じった男が立ち上がって叫んでいた。
「はい、こちらは劉備軍の諸葛孔明殿です」
 魯粛は、肩を軽く竦めて答える。しかし、その白髪交じりとは違う男が、また大きな声を上げる。
「分かっているのか!? 劉備と交じることがどういうことなのか!?」
「曹操を倒すのに劉備の力など必要ない!」
「バカな! まだ曹操と戦うなどという愚かなことを言っているのかお前は!?」
「腰抜け共は黙っておれ!」
「なんだと!?」
 目まぐるしい人の動き。感情。それらがまるで形となって宙を駆け抜けているように孔明には見えた。それに触れれば、間違いなく自分の五体は消し飛ぶに違いない。
 恐怖が走る。劉備軍の軍議でさえ感じたことのない恐怖。体は竦み上がり、動かない足の代わりに腰が後ろへ下がろうとする。
「いやぁ、軍議中だったみたいです。あっはっは」
 怒号が飛び交う中、標的が自分から逸れたとばかりに魯粛が笑いながら言った。
「魯粛、貴様は末席だ! 発言権はないと思え!」
 そんな声が飛び、魯粛は冗談めいて眉根を寄せ、群臣の奥へと消えていく。
 飛び交う怒号は絡み合って傷付け合い、揉み合って地を這いずる。ここはどこだ。自分がいてはいけない所ではないのか。
「客人の前だ。しばし黙られい」
 数々の声に紛れて、低い声が一本響いた。孫権の発した言葉だった。それだけで、ざわめきは一気に鎮まり始める。孫権の落ち着いた声は、それほど耳にこびり付く。
「荊州の臥竜…諸葛孔明殿か。どうなされた、もっと前へ来なされ」
 つい先ほどと比べると、まるで静寂そのものになった場。
「は、は、い…」
 漬物石でも乗ったような重さの体を引きずり、壊れたからくりのように少しずつ前へ進む孔明。
「ん? どうなされた?」
 孫権。なんとか目を向けた先にいる男。第一印象は、自分の服など気にならなくなるような派手な服。そして、顔が大きく、その目も青く、髭は赤い。見た瞬間、人外のものを見たように身のすくむような思いをした。
「あまり似ておらんなぁ。なあ、子瑜?」
 孫権が、目を右に向けた。孔明は釣られるようにそちらに目を向けると、背の高い男が一人、群臣から頭を飛び出させていた。兄だ、と気付いた。
「母親が違いますので」
「そうかそうか。どちらの母が優秀かな?」
 孫権が、口の端を上げた。皮肉を込めた言葉。視線の先の兄は、目を孫権に向けて、ただ微笑みを送っている。そして、決して孔明と視線を合わせることはない。
 魯粛も群臣に紛れた。その群臣も、抗戦と降伏に別れながらも、自分の存在を快く思っている者は一人としていない。それは、先ほどの激しいやり取りから痛いほど分かっていた。
 孫権軍の総意が劉備軍との同盟などと、魯粛の言葉に少しでも期待した自分があまりにも愚かだった。
 敵。回り全てが、敵。
 それに気付いて、孔明は愕然とした。
「いや、この度はわざわざご足労頂いてすみませんな。まあ、それも徒労に終わってしまうかもしれんのだが」
「あ、の…」
 孫権が軽く挑発しにかかってきた。それは分かっているのだが、言葉が出ない。返せない。焦る自身の心がさらに孔明を追い詰めていく。経験したことのないほどの注目が、いま孔明に当てられている。
「これが噂に聞く臥竜か?」
 誰かが言った。
「戦場ではとても役に立ちそうにない」
 また、違う誰か。誰だ。視界が狭い。人の声も聞き取るのがやっとで、ほとんどが心臓の鼓動の音で埋め尽くされている。
「諸葛亮殿、どうされた? まさか水に当たられたのか?」
 孫権の言葉に、孔明は力なく首を振る。
 またか、また何も言えないのか。こんなことを、何度繰り返すのだ。ここで孫権に曹操と戦う決意をさせなければならないのだ…!
 自分に向けられる視線全てが、自分への攻撃に他ならない。しかし、それに耐えなければ、一歩踏み出さなければ。自分が何のためにここまで来たのか分からない!
 悔しい、話せないのが、回りが見えないのが、悔しい…!
「この男、本当に大丈夫なのか、魯粛? 劉備殿はこんな男を軍師にしているのか?」
 軍師。ぴくりと、肩が動く。
 そうだ、自分は徐庶に代わる軍師とならなければならない。でなければ、徐庶に再び会うことなどいつまで経っても出来はしない。
 目を強く閉じ、唇を噛み締める。喉まで、言葉が喉まで出ているのに!
「まあ、噂だけという人間も世にはおるがなぁ。これが臥竜とまで呼ばれた男とは…」
 孔明の肩が波打つ。消える。道が、細く消え入っていく。
「でもここにくるまでは、いろいろ話したんですけどね〜。子喩どのに送った紙は孫権様に劉備軍を意識させるためにものだったとか…」
「魯粛! お前は喋るな!」
 ……? そんなことは言っていない…。
「民を引き連れたのも、劉備の名を簡単に捨てるには惜しいと思わせるためだったとか…」
「黙れと言っておろう!?」
 それも…! 言った覚えはない!?
 しかし、事実だった。兄への書簡、数十万の民を連れた逃避行。全ては劉備の唯一ある名声を極限まで高めるためだ。それで人は、劉備を無視できなくなる。それは、国の全てに影響してくる。
「諸葛亮殿。わが揚州軍は、まだ曹操と開戦と決定したわけではないのだ。そなたはどう思っておられる?」
 曹操…。揚州軍の兵力差…。
「降伏すべきです、孫権様! 曹操の兵力に抗う術などありませんぞ!?」
「それは臆病者の言うことだ!」
 再び、群臣から声が上がり始める。耳に入ってくる。
「民をいたずらに苦しめて、それで何を得ようというのだ!?」
「曹操は帝を傀儡とする逆賊ではないか!」
 自分の存在と、言葉の嵐。そこに壁が出来ていく。決して踏み込めない壁。しかし、その壁は全てを見通し、全てを耳に入れる役割を果たす。
「周瑜殿も必ず開戦を勧められるはず!」
「周朗の考えは理想に過ぎん! 曹操に勝った後よりも、目の前のことを考える頭がお前たちにはないのか!?」
 周瑜…!
 曹操に勝った後。それが、何を意味するのか。孔明の考えが正しければ。
 やはり周瑜は、決して相容れない人間なのか。天下三分の、敵となる男なのか。
 天下三分。それは劉備の道であり、自分の理想の国である。この国は広すぎる。覇者は完全な英傑であり、瞬く間の天下平定をなし得る人間でなければ、この国は戦乱に苦しみ続ける。
 だが天下が三分され拮抗していれば、そう簡単に戦端を開くことは出来ない。そして、英雄の出現を待つ。それで、この国は平穏を取り戻すはずなのだ。曹操では駄目なのだ。あるいはこの目の前の孫権でも…。そして我が主、劉備玄徳でも…。
 その天下三分の鍵が、いま目の前にある。自分の喉の奥の心の中に広がっているではないか。
 それを、喋れ! 吐き出せ! 伝えきれ! 五体など必要ない! 今は口、それだけあればいいのではないのか!?
「孫権殿、あなたはどうしたいのです?」
 孔明の声が、喧騒を貫いた。
「なに?」
 孔明の目が、孫権を見据えていた。視界が、どこまでも広がる。魯粛の視線を背に感じる。劉備に仕立ててもらった服を、孔明は軽く撫でていた。
 群臣たちは、やっと話し始めた孔明の様子を見て鎮まり始めていた。
「孫権殿は、これまで三代に渡って江南の発展に尽力されてこられました。荊州の劉表殿は、孫権殿と同じように自領をただひたすらに守り、この乱れた世にも兵をいたずらに起こさずに来ましたが、先日ご存知のように曹操に降伏してしまいました」
 足が、孫権に向かって数歩出ていた。もっと伝えなければ、もっと。
 思い出す。孫権陣営の情報。宿将である黄蓋、程普、韓当を始め、孫策時代からの若き将。文官では、張昭が頭脳となっている。どの人物が誰なのか当てはめる。
 見ぬ敵ではない。もはや知った者たちだ。自分は、その中にいる。
「いま孫権殿の重臣の方々も降伏か抵抗かに意見を違えているようですが、それは当然のことでしょう。今この国はその二つの意見に揺れ動いているのですから。曹操は大乱をいくつも自らの力で切り開き、中原を平定し、この国においていま最大、最強の勢力になりあがっています。此度の荊州の無血降伏によって、その威勢は四海に轟いたことでしょう。曹操を恐れるのは、子が親を恐れ敬うのと同じことなのです」
 まだ、言い足りない、もっと、もっと!
「ならば、劉備殿の家臣にも降伏しようと言う者がいるというのか?」
「一人としておりません」
 ゆっくりと、しかし力強く首を振る。
「しかし今そなたはこの国全てがと言ったではないか」
「この国、というのは正確にはこの国に住むものたちです。この国自体ではありません。かつて田横は斉の壮士に過ぎませんでしたが、それでも義を貫き通し、屈辱を受けませんでした。まして我が主・劉備玄徳は王室の末裔。この国の根幹足りえる方であり、国そのものに近い存在であられるのですから、それに尽き従う者たちはこの国の重臣。いわば田横と同じであり、降伏に傾くなどありえません」
 手を上げ、上を向きながらゆっくりと言う孔明。視線のその先には、空が見えるような気がした。
 孫権が、立ち上がった。
「劉備殿は滅びが待とうとも、曹操と雌雄を決されると言うのか」
 孔明がさらに一歩歩み寄る。
「その通りでございます。将軍はこの揚州の主。配下の意見が分かれるように、自らの力量を測り、曹操に当たることは当然のことでございます。御自らの軍勢で曹操を破れるというのなら曹操と国交を断絶されるのが最善でしょう。もし対抗できないと判断されるなら、甲冑を脱ぎ、臣下の礼を取ってこれに服従なされるのがよろしいでしょう。どちらにしろ事態は切迫しておりますから、決断はお早めになさるがよろしいかと」
 言い終わりゆっくりと頭を下げると、直後に風のようなものが孔明を襲った。
「おっ…」
 孫権の怒り。それが、迫る風となって自分を包んできていた。
「お主は同盟を頼みに来たのではないのかっ!?」
 孫権の怒号が響き渡る。その手は、腰に佩いた剣にかかっている。
 孔明の目が、かっと見開かれた。そんな脅しは、張飛の凄みに比べれば何ほどのこともない!
「私は、あくまで劉備軍の意志を伝えにきただけ。劉備軍がもし使者を送るなら、それは曹操と戦う決意をしている漢に忠誠を誓った者にだけです。それが、勢力に限らず、たった一人の人間であったとしても。逃げる劉備殿に付き従った大勢の民たちは、それで集まってきたのですから」
 孫権の剣の柄を握った手が、わなわなと震えていた。その孫権が口を開くかと感じた瞬間、後ろから声が発せられた。魯粛だ。
「でも曹操軍は八十万。揚州の軍は十万をなんとか超える程度。勝てるとは思えないってことで降伏論が強いんですよ? その辺、なんかありますかね、諸葛亮殿?」
「魯粛、何度言えば分かる…」
 孔明は、無表情に後ろを向いた。魯粛と、魯粛を叱り付けていた男が少し身を引いたようだった。
しかし、魯粛は笑っていた。この男は、いつも試しているように見えて舐めているようにも思える。それでいて憎めないのだ。孫権の元には、周瑜だけではない。こんな男がいるのだと、改めて思う。しかし、もう甘い言葉をかけてやるつもりはなかった。
「それは、私が言う必要があるのですか魯粛殿?」
「いや、一応揚州外からの意見を聞いておかないとね、と思いまして」
「いいでしょう。孫権殿、耳をお貸し願えますか?」
「…聞かせてみよ」
 孫権は、憤りをぶつける先を魯粛のせいで失って、所在無さげに座り込んだ。
「孫権様!! この男は劉備軍の人間ですぞ!?」
 文官の一人が膝を立てて叫ぶ。
「劉備は負け戦で兵もなく、頼れるものが孫権様しかおらず、何とか引きずり込もうとしておるのです! 虚言に惑わされてはいけません!」
「勝てるはずもない戦をさも勝てるように口八丁を…」
 孔明は、わずかに目を細めた。疑問に近い表情は、その文官に向けられる。
「勝てるはずがあれば、降伏という主張を取りやめるのですか?」
 言葉を遮られた文官が、眉を吊り上げた。
「降伏すれば曹操に取り立てられる。孫権陣営も曹操陣営も変わらない。そうお考えでしょう?」
「何を…」
「ですが、孫権軍の誇りというものを持つ人間もいるはず。違いますか?」
 問いかける。場の全てに、問いかける。
「そうだ! 我らは孫家に仕える臣! 曹操でも劉備でもない、孫権様の臣だ!」
「曹操になど屈してなるものか!」
「戦っても勝てる道理などないと言っておろう! なぜ分からん!?」
 再び騒然とし始める場。孔明はその中心でしばし顔を俯かせ、動きを止める。そして顔を上げると共に、三本の指を立てた。
「三つ」
 孫権に向かって、三本の指を伸ばす。静寂と喧騒の波は、いずれこの間を壊してしまうかもしれない。そう思うほど、場は急激に鎮まった。
「孫権殿が劉備様と同盟することによって、曹操に勝てる要因。それは三つ」
「…ほう?」
 孔明は孫権に近寄るように歩き、そして再び離れる。全ての人間の表情を、脳裏に焼き付ける。
「一つは、曹操軍の実情」
 三本のうちの一本を折る。
「曹操の軍勢八十万とは誇張に過ぎます。多く見積もって、いま曹操が要している兵は三十万。さらにそれは、中原の各所に守兵を残していない状態です。涼州では馬超が不穏な動きを見せていますし、もちろん揚州に向かっている徐州、予州にも配置しなければなりません。さらに北には異民族を抱えていますから、それを考えれば実質二十万」
「二十万、か」
 孫権が呟き、孔明は頷き返した。
「その二十万の内、五万は荊州の兵です。戦意は無いに等しいし、なにより実戦経験がありません。唯一実戦経験のあった江夏の軍は、劉備軍と孫権軍が吸収していますから」
「ふむ」
 孫権が頷いた。似たようなことを、配下の誰か、魯粛くらいがすでに話しているのではないかと感じた。
「そして、荊州にはまだ不穏分子、反曹操勢力が隠れています。つまり、曹操は残る自軍の十五万から選抜した五万程度を荊州に残すでしょう。そうなれば、揚州に攻め込んでくるのは、数合わせの荊州軍五万と、自軍十万の十五万です」
「荊州軍を無視したとすれば十万か」
「またいくら曹操軍といっても、放たれた矢は最後には勢いを失います。兵法にも前軍の将は倒されるとありますし、何より水です」
「水か」
「はい、土地の違いというものは想像以上に恐ろしいもので、疫病や食物、水に当たるものが大勢出るでしょうから、そう考えると兵力はこちらの二倍程度と見ても少なくありません」
「なるほどのう」
 孔明は再び場を見渡し、もう一本の指を折る。
「そしてもう一つ。それは、劉備軍の存在です」
「馬鹿なことを…。劉備軍はさんざんに蹴散らされたではないか」
 武官の一人の抗議に、孔明はゆっくりと首を振る。
「劉備様は樊城におられる際、二度曹操軍を破っています。いずれも、二倍以上の兵力が相手でした。江夏まで落ち延びたのは、亡き劉表殿への恩義を劉備様が報いることを忘れなかったため。荊州を戦火に巻き込むまいという意思からです」
「それに、劉備殿は反曹操の御旗」
 魯粛が言葉を挟んだ。もはや、魯粛の言葉を止める者はいない。
 孔明は頷き、言葉を続ける。
「降伏を考えている方々が劉備様を毛嫌いされるのは、曹操に悪い印象を与えたくないからでしょう。そこまで、劉備様の名声は全土に広まっています。そして、劉備様の元には、曹操に抗うべきと考える人間たちが集まります」
「私は実は遠くから見てたんですけどねぇ。凄かったですよ、劉備様に付き従う民の群れ。もうあれは領土のない国とでも言うんですかね」
「天下の情勢は確かに曹操に傾いています。しかし、民の心は決して倒れてはいない。劉備様がいる限り、曹操に抗おうとする心は消えはしません。曹操が帝を擁し、大義名分が向こうにあるとしても、劉備様はそれを覆す力をお持ちなのです」
「…それは詭弁だ!」
 再び、抗議の声が上がる。だが、孔明は再び場に混乱が訪れる前に、自らの思惟をぶつける。
「そして最後に」
 ゆっくりと、最後の一本を折る。
「孫権軍の力です」
 一瞬、空気がざわついた。だが、声は上がらない。
「揚州は異民族が多く住む土地。その反乱を相手に取りながら、ここまで安定した勢力を築かれた。短い間に二人もの主を失いながら、それでも古参と呼ばれる将を得、江東を瞬く間に制圧し、今は曹操と降伏か抗戦かを悩むほどの余裕がある」
「余裕…」
 孫権の表情が、驚きに満ちる。
「急激に大きくなったこの陣営を、しっかりとそこまで安定させたのは」
 孔明は言葉を切り、孫権の目を射抜く。
「若くしてこの揚州の主になられた孫権殿、あなたの力です」
 孫権の青い目が、しばし孔明の目と重なる。その奥には、確かに熱い炎が揺らいでいる。
「劉備様の元には関羽、張飛、趙雲という豪将が集っていますが、孫権殿の元にもそれに勝るとも劣らない将たちが多数おられるとか。それを纏め上げる力は、他の誰も持ち得ないものでしょう。そして、その有能な将たちが率いる、この国最強と噂される揚州の水軍」
 孔明は振り返り、屈強な男たちを見渡す。
「果たして、勝つことが難しいでしょうか?」
 しばしの空白。そして。
「その通りだ!」
「そもそも我らの水軍に勝てる者などおらん!」
「貴様ら…! 虚言に惑わされおって!」
「まだ降伏などというつもりかお前たち!?」
「孫権軍だけでも勝機がある! その上あと二つも勝利への要因があるのだぞ!!」
「どこに降伏する理由がある!?」
 場が喚声に包まれ始めた。しかし、最初にここに入ってきた時よりもずっと熱い。それは劉備軍とはまた違う、一つの強固なまとまりだった。
「後は、孫権殿がどちらを決断されるか、でございます」
 孔明は、丁寧に頭を下げた。孫権は、俯いていた。背後に広がる言葉の連鎖が、今はどこか心地よかった。
「く」
「?」
「はっはっはっは!」
 孫権の笑い声は、背後に行き交う声よりはるかに大きかった。
 それを聞いた瞬間、孔明は足がくず折れたのを感じた。自分の中の何かが解けた。そんな感覚だった。それ以外は、何も感じない。ただ、孫権がまた視界に大きく見えていた。
「いやあ、諸葛亮殿。おぬしは面白い…。ん?」
「諸葛亮殿、大丈夫かな?」
「そ、その…」
 足が震えて動かない。再び、ここは敵だらけの場所に戻ってしまったのだ。自分が、情けないばかりに。
 今までの自分が嘘のようで、気付くともう、声を出す気力すら残っていない。あと少し耐えれていれば、こんなみっともない姿を見られずに済んだというのに。
「はぁっはっはっは! 本当に面白い男だ!」
 孫権が大きな笑い声を聞きながら、孔明は大きく息を付いた。
 考えうる最良の存在感を与えたはずだ。これで孫権は、劉備をいくら兵力が劣ろうと、一つの勢力として認めてくれるだろう。
 後は、孫権が抗戦を選択することを祈るだけだ。そして、曹操に勝つ。それが今考え得る、最良の道だった。

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